●PETIT COURRIER DES DAMES デジタルライブラリー


第1巻(1821−1823)
 1821-1823(1)
 1821-1823(2)
 1821-1823(3)
 1821-1823(4)

第2巻(1824−1825)
 1824-1825(1)
 1824-1825(2)
 1824-1825(3)
 1824-1825(4)
 1824-1825(5)

第3巻(1826−1827)
 1826-1827(1)
 1826-1827(2)
 1826-1827(3)
 1826-1827(4)
 1826-1827(5)

第4巻(1828−1829)
 1828-1829(1)
 1828-1829(2)
 1828-1829(3)
 1828-1829(4)

第5巻(1830−1831)
 1830-1831(1)
 1830-1831(2)
 1830-1831(3)
 1830-1831(4)
 1830-1831(5)

第6巻(1832−1833)
 1832-1833(1)
 1832-1833(2)

プチ・クリエ・デ・ダーム誌図版集
 フランス革命末期の1795年、新憲法に基づく総裁政府(1799年まで存続)が発足した。総裁政府はブルジョアジーによる政府であり、被選挙資格を高くつり上げるなど、ブルジョア優位の秩序を守るための体制をとった。フランスの新しいモード・ジャーナリズムは、この政府のもとで行われた風俗の解放により生み出されたのである。

 その代表が1797年に創刊された「ジュルナル・デ・ダーム・エ・デ・モード」である。モード図を伴って刊行されたこのモード誌は、以降半世紀にわたり、革命の混乱に乗じて巨万の富を築き上げた闇商人や革命軍の将軍などの新興成金の妻や娘、殊に、パリというモード発信源から離れた地方に住むブルジョワ層に愛読された。このモード誌の成功例に魅せられ、同種のモード誌が次々と刊行されたが、いずれも、この巨頭「ジュルナル・デ・ダーム・エ・デ・モード」に吸収合併される結果と終わっている。

 しかし、唯一、長期間にわたり、ライバル争いを続けたものが、1821年、 ドナティーヌ・ティエリによって創刊された本誌、「プチ・クリエ・デ・ダーム」である。数ある19世紀モード誌の中でも、本誌が他誌を圧倒する存在としてモード誌界の王座を獲得できた理由は、そのモード図にあった。それは、同じファッションに身をつつんだ二人のモデルを同一画面に登場させ、デザインの正面と背面を描くという画期的な新機軸をうちたてたものである。モード発信源のパリから離れた地方の仕立て屋(クチュリエ)が、パリ発のモードを再現する際には、これらのモード図に頼るしかなかった当時、その図上に、正面・背面の図が明らかにされたことは、まさに革命的な出来事であった。以降、あらゆるモード誌がこの「プチ・クリエ・デ・ダーム」の手法にならい、両面図を描くことがモード図の新しい文法となる。この手法により、地方のクチュリエは本場パリのモードを完璧に体現でき、顧客の満足を獲得することができたというわけである。それは同時に、パリという文化の中心地と地方都市との間に横たわっていた情報伝達の時間差の短縮を意味した。本誌の「モード図」の登場は、いわば、19世紀フランスの流行通信における一種のIT革命であり、この「モード図」の登場によって、モード発信地パリから発された情報が、「ほぼ完全な形」で、「時差なくフランス全土」で入手することが可能となったわけである。インターネット網の発達による情報ボーダレス時代の恩恵を受けている今日の我々ならば、この19世紀フランスにおけるモード流行通信の革命がその後の文化発展史にいかなる恩恵を与えたかを容易に想像できるであろう。

 さらに言い添えるならば、「プチ・クリエ・デ・ダーム」のモード図には、その背後に様々な背景図が美しく描きこまれていた点を挙げねばならない。当時の家具の一部などが仔細に描かれており、モードのみならず、家具や装飾に関する情報もふんだんに盛り込まれていたのである。

 19世紀、ベル・エポック期、アールヌーヴォーへと発展した服飾文化史の中で大いなる役割を果たした「プチ・クリエ・デ・ダーム」誌。今回デジタル化したものは、1821年−1833年刊行分に掲載されたモード画を集録した図版集(全6巻)である。

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