○岐阜県ゆかりの先駆者たち
第3回
四代にわたる北海道開拓
武川久兵衛(たけかわ きゅうべえ)
江戸中期、四代にわたる北海道開拓で巨額の財をなした商人がいました。下呂の武川家です。飛騨屋と称し、代々の当主は久兵衛を名乗りました。
元禄8(1695)年、武川倍行(ますゆき)は、江戸へ出、元禄13(1700)年、奥州南部大畑(現青森県下北郡大畑町)に飛騨屋を開業し、初代久兵衛を名乗りました。
その後、下呂に本店、大畑、松前、京都、大阪に支店を置いて精力的に活動した倍行は、享保13(1728)年、55歳の生涯を終えました。
後継ぎは、甥の倍正(ますまさ)でした。寛保2(1741)年に45歳で亡くなるまで、わずか十年余りでしたが、家業の拡大に尽力しました。
三代目を継いだのは、わずか7歳の息子倍安(ますやす)でした。後見役の今井所左衛門がよく働き、倍安も長じて後は力を揮い、ますます利益を上げていきました。
最盛期には、日本を代表する豪商のひとつに数えられた飛騨屋でしたが、やがて陰りが見え始めました。数々のトラブルや不運が続き、倍安はそれに必死に抗いますが抗いきれず、天明2(1782)年、ついに家業を息子に譲りました。
その息子、倍郷(ますさと)は16歳で第四代久兵衛となりました。
彼は父の代に傾きかけた家運を立て直すべく奮闘しましたがさらに苦難が続きました。
寛政3(1791)年、倍郷はついに支店を閉じて、飛騨へ引き上げました。ここに、四代91年にわたる飛騨屋の活動は幕を閉じました。
今も下呂の温泉街を眼下に望む高台にある温泉寺には、山門へと続く石段の両側が墓地になっており、武川家代々の墓が並んでいます。
[注]
年号・事跡については、『飛騨下呂 通史・民俗』の記述によりました。
[参考文献]
『飛騨下呂 通史・民俗』 下呂町史編集委員会編 下呂町 1990
『飛騨屋久兵衛』 飛騨屋久兵衛研究会著 下呂ロータリークラブ 1973
『武川久兵衛家文書目録』 岐阜県歴史資料館 1994
『ぎふの偉人たち』 同編集委員会編 岐阜新聞 1991
『濃飛人物史』 岐阜県歴史教育研究会編 同刊行会 1980
いずれも岐阜県図書館蔵書
(岐阜県図書館 稲垣記)