○岐阜県ゆかりの先駆者たち
第4回
早取写真師の元祖
江崎礼二(えざき れいじ)
1845-1910(弘化2年-明治43年)
デジタルカメラ全盛の今、早取写真師というと奇異な感じがしますが、明治初めはフィルムの感度が悪く、30分ぐらい動かずに写真機に向き合うことは当たり前でした。
当時は湿板写真であり、ガラス板に塗布した感光乳剤が濡れている間に撮影する必要がありました。また、撮影前に感光材料を全て自分で作るため、カメラと三脚とともに小型の暗室も持ち歩く必要がありました。
明治16年、美濃の厚見郡江崎村(現岐阜市)出身の写真師江崎礼二が、当時輸入され始めた乾板を使って、水雷爆破の瞬間の撮影に成功し、新聞にセンセーショナルな記事として掲載されました。
乾板を使えば、撮影直前に感光乳剤をガラスに塗る必要がなく、暗室の持ち歩きも不要です。また、感度も高くなり瞬間撮影が可能になったのです。
江崎礼二は、弘化2年(1845年)生れで、大垣の久世喜弘に写真術の基礎を学び、明治3年東京へ出た後、下岡蓮杖の弟子となり、明治4年宇田川町に開業し、明治6年に浅草に移転、明治23年には江崎写真館を建設しました。当時浅草に40軒近くひしめいていた写真館の中でもトップクラスでしゃれた洋式のスタジオを持っていました。
その後、江崎礼二は区会議員に推され、さらに東京市会議員に選出されています。
明治29年6月には浅草銀行を発起創業して監査役となり、明治30年8月の創立には頭取に就任しました。また有名な浅草十二階(凌雲閣)の設立・建設に貢献し、後に凌雲閣株式会社社長となっています。
写真家としても、経済人・政治家としても活躍した江崎礼二は、明治43年6月に65歳の生涯を閉じました。
[参考文献(岐阜県図書館所蔵)]
『美濃のポトガラフィ事始め』 同展実行委員会 1990
『浅草十二階』 細江宏通著 1991 青土社
『中橋和泉町松崎晋二写真場』 森田峰子著 2002 朝日新聞社
[参考文献(国立国会図書館所蔵)]
『写真術独習書』第2版 マリオン著 江崎礼二著 1887.12 457p
『信用公録』 片岡哲編 1901
[参考ホームページ]
近代デジタルライブラリー
└国立国会図書館所蔵明治期刊行図書を閲覧するデータベース
『東京名家五幅通意当娯覧各業見立』
└東京大学社会情報研究所研究所小野秀雄コレクションより
(岐阜県図書館 土本記)