○岐阜県ゆかりの先駆者たち
第9回
世界で初めての地震学の教授
関谷清景(せきやきよかげ)
1854-1896(安政元-明治29年)
世界初の地震学会結成は日本でのことであり、世界初の地震学教授となったのは大垣市出身の関谷清景でした。
清景は、安政元年(1854)12月11日、大垣藩士関谷玄助・妻ユキの長男として、現在の大垣市歩行町に生まれました。
明治3年に政府が開いた大学南校に藩代表2名中1名として選ばれ、明治9年には第2回国選留学生としてイギリスへ渡りましたが、僅か半年で肺結核を発病し帰国しました。
1年8ヶ月の療養後、明治12年6月、神戸師範学校に奉職、9月には副校長になりました。
明治13年3月、世界初の地震学会である日本地震学会が結成されました。外国人技師が中心のこの会で、清景は日本語の出来ない彼らを助け活動を支えました。
明治13年4月、清景は東京大学地震観測所助手となり、翌年6月助教授となりました。機械工学が専門であった彼がここで本格的に地震学に取り組むことになりました。
彼は、日本中に地震観測網を作るなどし、地震学を体系化していきました。
明治19年3月、帝国大学地震学教授となりました。地震学講座が開かれたことも、教授が生まれたことも世界初でした。
彼は、大地震の度に現地で詳細な調査を行なうことを繰り返しました。
その結果、肺結核を再発し、またも療養を余儀なくされます。
明治24年8月、理学博士の学位を授与されました。
明治25年には、震災予防調査会が組織されました。この会は実質的には清景を中心とした日本人による地震学会でした。
ここで彼が行った最も大きな事業は『大日本地震史料』の編纂であり、その完成は彼の死後でした。
また、彼が作ったこの会の「調査事業概略」は地震学研究の指針となりました。
明治29年1月8日、清景は療養先の神戸須磨で亡くなりました。
揺籃期の地震学を体系付け、基礎を作った彼の功績は誠に大きいものがあります。
[参考文献(当館所蔵)]
『地震学事始 開拓者・関谷清景の生涯』 橋本万平 朝日新聞社 1983
『日本の地震学』 藤井陽一郎 紀伊國屋書店 1967 ほか
(岐阜県図書館 稲垣記)