第15回
三渓園を創った横浜の実業家
原 三渓
(はら さんけい)
1868-1939(慶応4年−昭和14年)
原三渓(本名・富太郎)は慶応4(1868)年8月23日、厚見郡佐波村(現柳津町佐波)に青木久衛・妻琴の長男として生まれました。
幼少の頃より勉強が好きで、17歳で京都の草場船山の門下生となり、その後跡見花蹊を頼って上京。東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治・経済を学ぶ傍ら、跡見女学校で教鞭をとります。
そこで、のちの妻となる横浜の生糸豪商原善三郎の孫娘・原屋寿(やす)と出会い、明治25年結婚し、原家に入籍しました。
明治32年、善三郎の死去により家業を継ぐことになります。三渓は原商店を合名会社に改組し、生糸業界では「世界のハラ」と呼ばれ事業を発展させました。
大正4年、帝国蚕糸社長、大正9年には横浜興業銀行頭取に就任します。
実業家として成功した三渓ですが、一方で日本美術に深い理解と興味を示しました。
明治39年には三渓園を一般市民に開放。また、新鋭画家の育成に力を入れ、援助を受けた安田靫彦、今村紫紅はのちに文展で受賞しています。
大正時代、日本美術創造の中心地となっていた三渓園には、小林古径、前田青邨、日本美術院の重鎮・下村観山などが集まり、インドの詩人タゴールも日本滞在時には、三渓園に迎えています。
大正12年関東大震災が起こり、横浜は大きな打撃を被ります。
三渓は横浜市復興会会長に就任し、その復興に尽力しました。
昭和5年には今まで描いてきたものを「三渓画集」として自費出版しました。
昭和に入ると生糸は人絹に押され、生糸業界の最盛期は終わりを告げ、事業が急降下していきました。
昭和12年長男が急逝。以降健康を損ね、昭和14年8月16日、71歳の生涯を閉じました。
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<岐阜県図書館所蔵 参考資料>
『近代日本画家を育てた豪商 原三渓』竹田道太郎著 有隣堂 1977年
『生糸商原善三郎と富太郎(三渓)』勝浦吉雄著 文化書房博文社 1996年
『ぎふの偉人たち』 岐阜新聞社 1988年
『三渓画集』川面義雄 1930年
『原三渓物語』新井恵美子 神奈川新聞社 2003年
『三渓 原富太郎』白崎秀雄著 新潮社 1988年
『柳津町史 佐波編』柳津町編・発行 1972年
『三渓園所蔵品図録』三渓園保勝会編・発行 1999年
岐阜県図書館 木戸記
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