第20回
昭和歌謡界の父
江口 夜詩
(えぐち よし)
1903-1978(明治36年−昭和53年)

 江口夜詩(えぐち よし)は明治36年、養老郡時村(現上石津町時)に生まれました。
 大正8年横須賀海兵団に第1期軍楽候補生として入団します。成績はたいへん優秀でした。
 大正10年、当時の皇太子(後の昭和天皇)ご訪欧の際、軍楽隊員として最年少の19歳で選ばれています。
 帰国後東京音楽学校(現東京芸術大学)へ海軍委託生として入学します。一時俳優になろうと決心しますが、沢田正二郎(新国劇の創立者)から、「作曲などで音楽の道を続けたらどうか」とアドバイスを受け作曲家への道を選びます。
 大正14年苦心の作、「千代田城を仰いで」がラジオ放送で発表され作曲家としてスタートしました。
 同年5月に喜枝と結婚、昭和2年には長男が誕生しました。しかし、昭和5年4月敗血症のため喜枝が急逝すると希望を失ない、昭和6年には12年間の海軍生活に終止符をうちます。
 フリーになった後の昭和7年、亡き妻を偲びながら作った「忘られぬ花」が大ヒットし、一躍「夜詩」の名前が多くの人々に知られるようになりました。ペンネームの「夜詩・よし」は妻の名前の「喜枝・よしえ」からつけたと言われています。
 第二次世界大戦勃発と共に「月月火水木金金」などの戦時歌謡も作っていますが、彼らしい楽しい曲も作っています。終戦後は、「緑の牧場」がヒットし、その後「憧れのハワイ航路」など軽快な曲が次々と生まれました。これらの歌は、戦後60年たった現在も歌いつがれています。
 彼は生涯に約4000曲を作っていますが、その他に歌謡学校の設立や教本の発行、コンクールの審査委員など歌謡界を担う若者の育成にも力を入れました。
 また、故郷を愛し、岐阜県下の幾つかの学校の校歌やふるさと音頭なども作っています。夜詩は昭和53年12月8日75歳の生涯を閉じました。
 夜詩の功績を広く人々に知ってもらうために平成6年5月上石津町に「江口夜詩記念館」がオープンしています。

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<参考文献>

江口夜詩の著作
『自叙伝 私の音楽生活』

参考資料
『昭和の大作曲家 江口夜詩』 白石博男著 1996
『憧れのハワイ航路 不滅の江口メロディー』 江口直哉編著
「江口夜詩を偲び江口浩司を励ます会」事務局 1985
『日本流行歌史  戦後編』 古茂田信男ほか編  社会思想社 1980
『この人 この歌』 斉藤茂著 廣済堂出版 1996

岐阜県図書館 今井記
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