○岐阜県ゆかりの先駆者たち
第26回
私立学校創設の先駆者
佐々木とよ(ささきとよ)
1873-1951(明治6年-昭和26年)
明治36年、佐々木とよは、私立学校令の認可を受け、岐阜市西野町に佐々木裁縫女学校を設立します。この学校は、県内私立女学校創設の先駆けとなるもので、良妻賢母教育を望む父母や、上級学校への進学を望む女性たちに歓迎され、私立の教育機関として大きく発展を遂げます。現在の鶯谷中学・高等学校に至るまで、一世紀にわたって教育活動が継続されています。
佐々木とよは、明治6年大垣藩の士族の家に生まれました。大垣の興文第二高等小学校を卒業後、高木晩翠らのもとで歴史や数学など多方面の勉学を楽しむ中で、女性の自立について考えるようになったといいます。
当時県内には女学校の設置が無く、明治29年、とよは新たな学びの場を求めて上京し、私立共立女子職業学校乙科刺繍科に入学、明治31年の卒業後は、更に東京裁縫女学校高等科に入学します。
東京裁縫女学校は、裁縫教授の第一人者渡辺辰五郎が設立した学校で、掛図を用いた一斉授業に個別指導を組み合わせた斬新な教授方法が定評で、全国各地から裁縫指導者を目指す女性たちが競って学んでいました。
高い裁縫技術と近代的な教授方法を習得したとよは、帰郷後の明治33年、岐阜市柳ケ瀬に岐阜裁縫伝習所を開きます。
小学校や師範学校の裁縫教師を志す女性など十数名の生徒が入学し、岐阜裁縫伝習所はスタートしました。とよと、東京裁縫女学校を卒業した妹のさとの二人が教師となり指導に当たりました。
生徒は、裁縫や手芸など数十の要目の中から、自分の能力に合わせていくつかを選択し、自習と個別指導を繰り返した後、課題を提出して合否の判定を受けました。卒業にはすべての要目の修了が求められ、1年から3年が必要だったといいます。
共進会で入賞を重ねるとよの高い裁縫技術と、刺繍など東京仕込みの手芸授業が評判を呼んで、岐阜裁縫伝習所への入学希望者が殺到します。校舎拡張のため転居を繰り返しますが、明治36年に西野町に移転する頃には、生徒数は百数十名に達していました。
明治36年8月、岐阜裁縫伝習所は私立学校令の認可を受け、佐々木裁縫女学校と改称します。
裁縫女学校設立の目的は良妻賢母の養成にあり、先進的な技術と理論に基づいた裁縫教育の実践を目指しました。
本科(修業年限2年以内)、研究科(同1年)、選科(規定なし)の三科を設置し、学科目は、修身と裁縫の正科目の他に、国語、算数、家事、割烹など11科目の随意科が設けられました。
当時の試験は大変厳しいもので、裁縫理論は25問中20問以上の正解が、また運針の試験は一時間に100尺をこなすことが求められ、生徒は指を血まみれにして練習したといいます。こうした厳格な実力養成教育に対する信頼は高く、卒業生は小学校の裁縫教師として優遇されました。
明治42年には、生徒増加に対応するため佐久間町に校舎を新築移転します。佐久間(さ・くま)の町名は、初代岐阜市長熊谷孫六郎氏の地所に佐々木裁縫女学校ができたことに由来します。
また、幼児教育の必要性を感じていたとよは、明治41年に県内2番目となる岐阜幼稚園を設立し、幼児教育に先鞭をつけます。
大正3年、佐々木裁縫女学校は学則を改正し、佐々木実科女学校と改称し、師範科を整備します。前年、とよは小学校長の小林亨一と結婚し、実科女学校の発足を機に夫亨一を校長に迎え、自分は理事長となって学校経営にあたります。大正13年には佐々木高等女学校を設置、翌々年には岐阜市鴬谷へ移転し、戦後、鴬谷女子高等学校を経て現在の鴬谷中学・高等学校に至っています。
理事長就任後もとよは教師として教壇に立ち、昭和20年まで教育に携わりました。
昭和26年8月、とよは78歳の生涯を閉じます。女子中等教育の発展に尽くした生涯でした。
[参考文献]
ホームページ
鶯谷中学・高等学校
http://www.mirai.ne.jp/~uguisu/
岐阜県図書館所蔵資料
『学園のあゆみ 70年の歴史と伝統』(鶯谷女子高等学校刊,1973)
『学園のあゆみ 80年の歴史と伝統』(鶯谷女子高等学校刊,1983)
『岐阜県教育史』通史編近代2(岐阜県教育委員会編・刊,2003)
『岐阜県教育史』通史編近代4(岐阜県教育委員会編・刊,2004)
『岐阜県女性史 まん真ん中の女たち』(岐阜県女性史編集委員会編,2000)
『郷土ゆかりの女性たち』(岐阜県図書館編,2004)
『岐阜県史』通史編近代下(岐阜県刊,1972)
『岐阜市史』通史編近代(岐阜市刊,1981)