名前よみ

あんらくあんさくでん

生没年

1554年-1642年(天文23年-寛永19年)

解説

子どもたちの「じゅげむ」人気や、落語を題材としたテレビドラマのヒットがきっかけとなって、落語が静かなブームとなっています。
さて、岐阜にゆかりの先人に、「落語の祖」と称される人物がいることをご存じでしょうか。
その人は、安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)。といっても、策伝は落語家だったわけではありません。京都誓願寺の第五十五世法主となった高僧で、笑い話の集大成『醒睡笑』を著しました。

策伝は永禄3年(1560)7歳の時に、美濃国浄音寺(現・岐阜市三輪)で出家をしました。策伝の出自については、『浄音寺過去帳』や『濃州立政寺歴代記』等の資料に「金森法印弟」(戦国武将で高山の町づくりをおこなった金森長近の弟)の記録が残されています。
永禄7年(1564)11歳の時に京に上り、曼荼羅講説の権威・甫叔上人に師事し禅林寺(永観堂)で修業しました。二十代半ば頃から山陽地方の各地に赴き寺々の再興にあたった後、文禄3年(1594)、41歳の時に、堺の正法寺十三世として入山します。また、慶長元年(1596)には、策伝が出家した美濃国浄音寺二十五世となり、美濃の地で17年間を過ごしました。
慶長18年(1613)、60歳となった策伝は浄土宗西山深草派総本山誓願寺第五十五世法主に栄進します。策伝は曼荼羅説きの名手であったといわれ、後水尾天皇の勅命を受け清涼殿で曼荼羅を講じ、後に紫衣勅許を受けました。

『醒睡笑』の成立

この頃、京都所司代板倉重宗(1586~1656)は策伝の話をきき、あまりにおもしろいので草子に作るよう要請します。この依頼を受けて、策伝は8巻の草子をまとめ、『醒睡笑』と名付けて寛永5年(1628)板倉重宗に献呈しました。
その序文には、「策伝某(それがし)小僧の時より耳にふれておもしろくをかしかりつる事を、反故の端にとめ置きたり」とあり、それを読み返していると「おのづから睡(ねむり)を醒(さま)して笑う」ので、草子を『醒睡笑』と名付けたとあります。
『醒睡笑』には、「ふはとのる」(人の煽てにのった話)「名津希(なづけ)親方」(珍名をつける笑い話)など42項目に分類された千余りの話が収められています。中には織田信長や豊臣秀吉の逸話や、堺や美濃での見聞録など策伝が耳にした当時の話のほか、『宇治拾遺物語』や『沙石集』『イソップ物語』中国の笑話集『笑府』に題材を得たと思われる話も含まれています。
策伝自身笑い話を好んだと思われますが、『醒睡笑』は、単なる笑い話集というより、説教をする際の挿話のネタとして、これはと思う話を書き集めたものであると言われています。

策伝の晩年

元和9年(1623)70歳になった策伝は、誓願寺の塔頭竹林院に隠居し、境内の茶室安楽庵に暮らし自ら安楽庵と号しました。策伝は茶道にもすぐれ、安楽庵裂や安楽庵釜などが今に伝わっています。また、椿の収集にも熱心で、百種の椿の変種について、その命名の由来や花の特色などを記した『百椿集』を著しています。
『策伝和尚送答控』には、歌会や連句の記録や、季節折々の贈り物に添えた和歌や狂歌が収められ、将軍家光や公卿達、小堀遠州や松永貞徳など幅広い人々と交流しつつ、悠々自適の余生を送ったことがうかがわれます。
寛永19年(1642)正月8日、策伝は89歳の生涯を閉じました。

「落語の祖」策伝

策伝の没後、京・大坂・江戸で、落語家のさきがけとなる露の五郎兵衛、米沢彦八、鹿野武左衛門らが、辻咄を演じて評判を博します。「落し咄」を集大成した『醒睡笑』は、辻咄の種本として用いられることとなり、後に、策伝は「落語の祖」と称されるようになります。 今も高座で語られる「平林」「子ほめ」「星とり竿」「無筆の犬」などの落語の原話や小話の多くが『醒睡笑』に収められています。
現在もなお策伝の功績を称える人々は多く、京都誓願寺では、毎年10月初旬の日曜日の「策伝忌」に奉納落語会が、また、策伝が出家し後に住職となった岐阜の浄音寺でも、命日にあたる1月8日に顕彰落語会が催され、「落語の祖」策伝を偲ぶ事業が行われています。
一方、策伝ゆかりの岐阜市では、策伝をシンボルキャラクターとして「笑いと感動のまちづくり」事業を実施し、「全日本学生落語選手権・策伝大賞」や土曜寄席などを開催しています。
笑いが免疫力や記憶力を高めると注目される昨今ですが、生誕から450年余りを経た今も策伝和尚は、私たちの生活に笑いと潤いを届けてくれています。

浄音寺写真
浄音寺(岐阜市三輪)
安楽庵策伝の墓写真
安楽庵策伝の墓(誓願寺墓地内)

参考文献

いずれも岐阜県図書館所蔵

参考ウェブサイト