名前よみ

えぐち よし

生没年

1903年-1978年(明治36年-昭和53年)

解説

終戦後の混乱が続く昭和23年、全国津々浦々に岡晴夫の歌う『憧れのハワイ航路』がラジオから流れました。食料不足の生活の中で、豪華客船でハワイへの旅など市民には夢のまた夢の時代でした。しかし、明るく軽快なメロディのこの曲は、敗戦を引きずりながらも希望を求めていた人々に口ずさまれ大ヒットとなり戦後歌謡の代表作と言われています。この『憧れのハワイ航路』を作曲したのが江口夜詩(えぐち・よし)です。

音楽との出会い

江口夜詩(えぐち・よし)(本名・源吾)は明治36年(1903年)養老郡時村(ときむら:現上石津町時)に生まれました。15歳で、時尋常高等小学校高等科2年を卒業し村役場に就職しましたが、村を出て勉学する夢をかなえるため、16歳から受験資格があった海軍軍楽隊に応募し大正8年(1919年)横須賀海兵団に第1期軍楽候補生として入団します。これが大作曲家江口夜詩と音楽との出会いです。

軍楽隊時代

五線紙も音符も知らず「時村」から上京した源吾少年でしたが成績はたいへん優秀でした。大正10年(1921年)、当時の皇太子(後の昭和天皇)ご訪欧のお召し軍艦『香取』に乗り組む軍楽隊員に最年少の19歳で選ばれています。帰国すると東京音楽学校(現東京芸術大学)へ海軍委託生として入学するチャンスを得ました。2年間の予定がさらに特別委託生になり、東京音楽学校では6年間学びました。軍楽候補生の頃からトロンボーンを吹いていましたが、ここではセロ(チェロ)でした。ギィギィ弾き続ける毎日に加え、英語など数多くの講座もあり簡単ではありません。特に苦手な唱歌の時間は悪戦苦闘の日々でした。演奏者としての自分の才能に限界を感じ始めた22歳の源吾は「きっぱりと音楽の道をあきらめて俳優になろう」と決心し、沢田正二郎(新国劇の創立者)に弟子入りを頼みますが、沢田は弟子入りを断り「作曲などで音楽の道を続けたらどうか」とアドバイスをします。この一言から作曲家江口夜詩が生まれたのです。
沢田正二郎の一言で作曲を学ぼうとする源吾でしたが、当時は作曲を教えてくれる人がいないため独学での習得でした。海軍軍楽兵としての勤務も階級が上がる度に多忙になり作曲の勉強は深夜に及ぶ毎日でした。しかし、源吾にとって、五線紙にむかう時がなによりの楽しみでした。
大正14年(1925年)苦心の作、『千代田城を仰いで』がラジオ放送で発表され作曲家としてスタートしました。
この年の5月に喜枝と結婚、昭和2年には長男が誕生しました。作曲家活動も順調で公私ともに充実した毎日でした。この軍楽隊時代に、行進曲を中心に30曲ほど作っています。しかし、昭和5年4月敗血症のため喜枝が急逝すると源吾は希望を失ってしまい、昭和6年には12年間の海軍生活に終止符をうちます。

作曲家時代

海軍退役と同時にポリドールレコードの専属作曲家となりましたが、簡単にヒットは出ませんでした。その後フリーになり昭和7年、亡き妻を偲びながら作った「忘られぬ花」が大ヒットし、一躍「夜詩」の名前が多くの人々に知られるようになりました。ペンネームの「夜詩・よし」は妻の名前の「喜枝・よしえ」からつけたと言われています。
第二次世界大戦勃発と共に『月月火水木金金』などの戦時歌謡も作っていますが、彼らしい楽しい曲も作っています。戦争が終わると、『緑の牧場』がヒットし、その後『憧れのハワイ航路』など軽快な曲が次々と生まれました。それらは、戦後60年たった現在も歌いつがれています。昭和20年代から30年代前半は、ラジオから「夜詩」の曲が毎日の様に流れ作曲家として最も輝いた時期でした。

歌謡曲と『夜詩』

彼は生涯に約4,000の曲を作っていますが、これだけではなく、歌謡学校の設立や教本の発行、コンクールの審査委員など歌謡界を担う若者の育成にも力を入れました。16歳で音楽と出会った源吾少年は、軍楽隊時代の管弦楽、吹奏楽を経て、歌謡曲を生涯の仕事にしました。歌謡曲が人々の喜びや、悲しみに寄り添う一番身近な音楽だと夜詩は感じたのではないでしょうか。まさに昭和歌謡界の父といえるでしょう。

夜詩は昭和53年(1978年)12月8日パーキンソン氏病のため75歳の生涯を閉じます。15年間の難病との闘いでした。夜詩は故郷を愛し、岐阜県下の幾つかの学校の校歌やふるさと音頭なども作っています。故郷とずっとつながっていたいという思いからでしょう。夜詩の功績を広く人々に知ってもらうために 平成6年5月上石津町に『江口夜詩記念館』がオープンしています。

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書