名前よみ
えざき れいじ
生没年
1845年-1910年(弘化2年-明治43年)
解説
デジタルカメラ・デジタルカメラ付携帯電話が全盛期の今、早取写真師などというと奇異な感じがします。
しかし、明治の初めの頃は30分ぐらい動かずに、写真機と向かい合うことは当たり前の事であり、 肖像写真を撮るためには、首枷という道具を首に挟んで体を固定して撮影を行いました。撮影が終わる頃には、魂が抜けたようにグッタリとしたそうです。当時はガラス板に液剤を塗布して撮る湿版写真であり、ガラス板に塗布した感光乳剤が濡れている間に撮影しなくてはならない技法でした。湿板は、撮影前に感光材料を全て自分で作らなくてはならず、そのため撮影時には、カメラと三脚とともに小型の暗室も持ち歩く必要がありました。
早取写真
明治16年、美濃の厚見郡江崎村(現岐阜市)出身の写真師江崎礼二が、当時輸入され始めた乾板を使って、水雷爆破の瞬間の撮影に成功し、当時の新聞にセンセーショナルな記事として掲載されました。
乾板を使用すれば、撮影直前に感光乳剤をガラスに塗る必要がなく、暗室も持ち歩かなくてよくなりました。また、感度も高くなり瞬間撮影ができるようになったのです。
明治・大正期の小説家であり翻訳家の"内田魯庵"が、大正9年からの「読売新聞」 の連載(大正10年2月24日)の中で、早取写真を取り上げています。
なお、この連載記事は単行本『バクダン』(大正11年春秋社)として出版されました。
「シロウトがレフレックスでマラソンでも野球でも競馬でもパチパチ撮る今から考へると馬鹿々々しいが、明治四十五年頃であつた、江崎禮二の早取寫眞(はやとりしゃしん)といふのが大評判となった。夫までは寫眞は鳥渡(ちょっと)でも動いたら撮れないといふので、小兒、殊に哺乳兒の撮影は殆ど不可能と見做(みな)されてゐた。處で江崎の新發明の早取機械では怎んなに動くものでも容易に撮れるといふので非常な大評判となつた。江崎は其頃から奥山(淺草公園)では第一位の寫眞師であつたが、早取寫眞で一層賣出して一躍日本一の大寫眞師となった。」(『バクダン 早撮の元祖江崎礼二』より)
この江崎礼二は、弘化2年(1845年)美濃の厚見郡江崎村(現・岐阜市)の生れで、大垣の久世喜弘に写真術の基礎を学び、明治3年大垣藩士小野崎蔵男の江戸勤番に従って江戸へ出た後、下岡蓮杖の弟子となり、明治4年東京宇田川町に開業し、明治6年に浅草に移転しました。明治23年にはフランス製煉瓦を使った江崎写真館を建設しました。当時淺草には、40軒近くの写真館がひしめいていましたが、その中でもトップクラスでしゃれた洋式のスタジオを持っていました。
明治17年発行の名士・名家を網羅した『東京名家五幅通意当娯覧各業見立』(東京大学社会情報研究所研究所小野秀雄コレクション)には、写真として江崎礼二の名を見つけることができます。また、岐阜県図書館が所蔵する明治期の読売新聞(CD-ROM版)を検索すると、「江崎礼二」のキーワードで62件の新聞記事がヒットします。その内「早取写真」関係の記事を下記にまとめてみました。
掲載日 | 記事タイトル |
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明治16年5月6日 | 浅草の写真師が発明した早撮り写真、飛んでいるハト撮影に成功 |
明治16年5月19日(記事6月7日掲載) | 隅田川で行われた海軍の水雷爆破の瞬間と端艇競争を写真師江崎礼二がスワン乾板を使用して撮影に成功し 「早撮写真師」 として一躍有名になり全国に知れわたった。 |
明治17年4月5日 | 浅草の写真師が今年も隅田川ボートレースと水雷火の早撮り写真 |
明治17年9月21日 | 神田祭りの山車練り込みの写真 浅草奥山の写真師が撮影 |
明治17年12月6日 | 故成島柳北の葬儀の写真 浅草奥山の江崎礼二が早撮りで撮影 |
明治18年1月11日 | 東京浅草の写真師江崎礼二が出初め式の梯子乗りの写真を撮影 |
明治18年4月14日 | 花屋敷の写真 |
明治18年5月8日 | 打ち上げ花火の写真を撮影 |
明治18年6月14日 | 早撮り写真 隅田川のボート競漕と水雷火発射を鮮明にとらえる |
明治18年7月9日 | 流出した千住大橋、吾妻橋の様子を写真撮影 |
明治18年9月1日 | 両国川施餓鬼の早撮り写真 浅草の江崎礼二が全景4枚続きで撮影 |
明治19年7月22日 | 三島警視総監を迎えての水防組出初め式を写真撮影 |
明治20年8月13日 | 写真師江崎礼二が皆既日食撮影のため宇都宮地方へ出張 内務省地理局 |
明治20年8月21日 | 雲多く「皆既日食」は撮影できず |
明治21年1月14日 | 書籍 江崎礼二訳『写真術独習書』再版出版 |
明治21年3月2日 | 写真の夜間撮影 人造光線を利用した米国の撮影法を浅草の写真師が採用 |
明治23年11月2日 | 帝国議事堂の写真撮影 浅草公園の江崎礼二が担当、納付の後売り出しへ |
明治23年11月29日 | 軽気球乗り大会の写真 浅草公園の写真師が、上野公園で早取り |
明治26年7月14日 | 福島中佐乗馬の写真 浅草の写真師が厳寒の遠征姿写す |
明治26年10月21日 | 凌雲閣のジオラマ 子ども1,700人の写真を仕組み陳列 |
明治29年1月28日 | 江崎礼二が、わが国の写真の歴史などを語る |
江崎礼二と浅草十二階(凌雲閣)
その後、江崎礼二は浅草の発展に尽くしたとして区会議員に推され、さらに東京市会議員に選出されています。
明治34年に発行されている『立身致富信用公緑』には、「江崎礼二氏(早取写真術開祖)」として、47から51ページに掲載されています。この資料は国立国会図書館所蔵ですが、同館事業によりデジタル化されインターネットで閲覧できます。
同書によれば、公職として浅草区会議長、学務委員長、浅草区教育会副議長等に推され、また東京市議会議員名誉職市参事会議長、市学務委員長代理、東京築港準備委員等を歴任しました。
明治29年6月には浅草銀行を発起創業して監査役となり、明治30年8月の創立には頭取に就任しました。また有名な浅草の十二階(凌雲閣)の設立・建設に貢献し、後に凌雲閣株式会社社長となっています。
その浅草十二階(明治23年11月11日開館から大正12年9月1日関東大震災で崩壊)は、岐阜県に縁ある人物が携わっているので少し紙面を割きます。
淺草十二階の設計は、帝国大学工科大学の御雇外国人教師のバルトンが行っています。バルトンは明治24年にマグニチュード8.4の濃尾地震が起こったとき、地震学者ミルンとともに調査のため岐阜を訪れており、その調査でバルトンが撮影した写真は、地震学者ミルンとバルトンの共著『The great earthquake in Japan, 1891』としてまとめられています。生写真が中心で印刷製本が珍しい当時としては画期的な製本です。
同書の長良川鉄橋の倒壊写真や根尾断層等の記録写真は、今なお、濃尾大地震の記録としてしばしば引用されています。
写真家としても、経済人・政治家としても活躍した江崎礼二は、明治43年6月に65歳の生涯を閉じました。読売新聞明治43年6月30日号に訃報記事が掲載されています。
「我が国写真術界の宿老江崎礼二氏は肝臓□□病に罹り淺草山の宿五一別邸に療養中の所二十八日午後二時死去せり、享年六十六<略>氏は岐阜県稲葉郡江崎村の人、明治三年早くも芝日陰町に写真屋を開業し十八年皆既日食の折り福島県松島に赴き望遠鏡を利用して鮮明に撮影し□業者を驚かしたる事あり廿八年頃子供千人の写真を外国に輸出し喝采を博したる事あり曾て久しく市会議員たりき」※□判読不明(著者)
参考文献
岐阜県図書館所蔵
- 『The great earthquake in Japan 1891』(John Milne W.K.Burton著 K.Ogawa撮影、Lane,Crawford)
- 『美濃のポトガラヒィ事始め 美濃の蘭学と写真術』(美濃のポトガラヒィ事始め展実行委員会編、岐阜県営業写真家協会、1990年)
- 『浅草十二階 塔の眺めと近代のまなざし』(細江宏通著、青土社、2001年)
- 『中橋和泉町松崎晋二写真場 お雇い写真師、戦争・探偵・博覧会をゆく』(森田峰子著、朝日新聞社、2002年)
- 『内田魯庵全集 補巻2 随想・評論』(ゆまに書房、1987年)
- 明治の読売新聞(CD-ROM)
- 大正の読売新聞(CD-ROM)
その他
- 『写真術独習書』(マリオン著、江崎礼二訳、1887年)
- 『立身致富信用公録 第1編』(国鏡社、1902年)