名前よみ

はねだ こうのすけ

生没年

1859年-1932年(安政6年-昭和7年)

解説

東京都文京区本郷菊坂に、かつて「菊富士(きくふじ)ホテル」というホテルがありました。
大正から昭和10年代後半にかけて、数多くの著名な文学者、芸術家、学者、思想家たちが、数ヵ月、あるいは数年にわたって滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残しました。有名出版社の入社試験にこのホテルのことが出題されたこともあったといいます。

宿泊者の顔ぶれは、竹久夢二、大杉栄、菊池寛、谷崎潤一郎、尾崎士郎、宇野千代、宇野浩二、直木三十五、三木清、広津和郎、正宗白鳥、宮本百合子、石川淳、坂口安吾、...といった、当時を代表する、そうそうたる人々でした。ところが、多くの著名人に親しまれたこのホテルの主人が岐阜県出身者であったことはあまり知られていません。

このホテルの主人、羽根田幸之助が安八郡川並村平(現在は大垣市)から上京したのは、明治28年のことでした。当時の東京は、日清戦争後の景気で活気にあふれていました。幸之助は人の勧めで本郷に学生相手の下宿屋を開業します。東京大学を初めとして、周辺には多くの学校が続々と誕生していたにもかかわらず下宿が不足しており、とりあえず始めるにはうってつけの商売だったのです。

幸之助のアイデア、妻、菊江の人柄、奮闘によって、小さな下宿屋は客室50を超す洋風ホテルに発展します。東京大正博覧会のあった大正3年、本郷菊坂の高台に「菊富士ホテル」は誕生しました。その間、幸之助の成功を知った故郷の人々が続々と上京し、本郷一帯には西濃出身者が経営する下宿屋が相次いで誕生しました。これが、修学旅行生の宿としても親しまれる"本郷旅館街"のもととなったのです。現在、40軒近くある旅館の内、約半数が岐阜県にゆかりの経営者のものとのことです。その先駆となったのが羽根田幸之助夫妻でした。

残念ながら「菊富士ホテル」は昭和20年3月の東京大空襲で焼失し、同地にはその跡を示す碑とゆかりの著名人らの名を刻した碑が建てられています。

幸之助の「菊富士ホテル」は文壇史上にも名を残す抜きん出た存在といえますが、東京の一角、本郷の地が岐阜県とこのような結びつきを持っていることはちょっとした驚きです。

「菊富士ホテル」の数々のエピソードについては、下記にご紹介する資料をご覧ください。

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書