名前よみ

はら さんけい

生没年

1868年-1939年(慶応4年-昭和14年)

解説

横浜市中区本牧にある三渓園は、横浜を代表する観光地の一つです。
西の桂離宮、東の三渓園と並び称される名園で、園内には文化的古建築物を各地から譲り受けて移築した国の重要文化財が数多くあります。
また、建築物のみならず三渓が蒐集した美術品や、自ら描いた日本画等も展示されています。
三渓園の名は実業家原富太郎の号「三渓」によります。

原家へ入籍

原三渓(本名・富太郎)は慶応4(1868)年8月23日、厚見郡佐波村(現柳津町佐波)に青木久衛・妻琴の長男として生まれました。
幼少の頃より勉強が好きで、小学校を卒業すると大垣の儒者野村藤陰の鶏鳴塾で漢籍を学びます。17歳で京都の草場船山の門下生となり、その後跡見花蹊を頼って上京。東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治・経済を学ぶ傍ら、花蹊が開いている跡見女学校で教鞭をとります。
そこで、のちの妻となる横浜の生糸豪商原善三郎の孫娘・原屋寿(やす)と出会いました。二人は相思相愛の仲となり、結婚を考えるようになります。双方共に跡取りという難題がありましたが、周囲の理解を得て明治25年結婚し、原家に入籍しました。

実業家として

明治32年、善三郎の死去により家業を継ぐことになります。三渓は原商店を合名会社に改組し、生糸業界では「世界のハラ」と呼ばれ事業を発展させました。
大正4年、帝国蚕糸社長、大正9年には横浜興業銀行頭取に就任します。 実業家として成功した三渓ですが、一方で日本美術に深い理解と興味を示しました。
明治39年には整備をすすめていた三渓園を一般市民に開放。当時としては画期的なことでした。また、新鋭画家の育成に力を入れ、援助を受けた安田靫彦、今村紫紅はのちに文展で受賞しています。
大正時代、日本美術創造の中心地となっていた三渓園には、小林古径、前田青邨、日本美術院の重鎮・下村観山などが集まり、また美術家のみならず、インドの詩人タゴールも日本滞在時には、三渓園に迎えています。

晩年の三渓

大正12年関東大震災が起こり、横浜は大きな打撃を被ります。
三渓は横浜市復興会会長に就任し、身を挺してその復興に尽力しました。
関東大震災以降、三渓は美術品の蒐集をやめてしまいます。そして、自ら書画を描くことが多くなりました。昭和5年には今まで描いてきたものを「三渓画集」として自費出版しました。
昭和に入ると生糸は人絹に押され、生糸業界の最盛期は終わりを告げ、事業が急降下していきました。 
晩年の三渓はふるさと岐阜の料亭・水琴亭(岐阜市)を頻繁に訪れたり、日本の各地を旅しました。
昭和12年長男が急逝。以降健康を損ね、昭和14年8月16日、71歳の生涯を閉じました。

参考文献

  • 『三渓画集』(原三渓著、川面義雄、1930年)

いずれも岐阜県図書館蔵書