名前よみ

はやし ゆうてき

生没年

1837年-1901年(天保8年-明治34年)

解説

社会のありかたが大きく変化をした明治時代初期、新しい時代にふさわしい新事業を興す人物が多く生まれました。
早矢仕有的は、福沢諭吉の意を受け、書籍を中心とした西洋物品輸入事業を行い、日本の近代化促進に大きな足跡を残しました。
早矢仕の創設した会社「丸善」は、時代の波を超えて現在にまで引き継がれています。

若き日の早矢仕有的

早矢仕有的は、天保8(1837)年、武儀郡笹賀村(山県市笹賀)の医師の家に生まれました。
幼少時より明敏で、成長するにつれ医師を志し、大垣、名古屋で修行をした後、18歳で郷里の笹賀村に帰り、実家で医師として仕事を始めました。
青年医師として5年間医療に従事し、村民からも重んじられていましたが、同郡中洞村庄屋の高折善六が、有為の才を抱きながら田舎医師として 埋没することを惜しみ、江戸へ出ることを勧め、安政6(1859)年、郷里を出て江戸に赴きました。
そのとき、善六は餞別と和歌一句を贈って早矢仕を励ましたと言われています。

福沢諭吉との出会い

江戸での早矢仕は、はじめ按摩を業とし、さらに医学を修めたあと、万延元(1860)年、医業を開業しました。
診療の傍らに蘭法医学を坪井信道に学び、慶応3(1867)年30歳の時に福沢諭吉の門下生として慶応義塾に入塾しました。
福沢は当時32歳で既に名声が高く、早矢仕も医師として一家をなしていました。 二人の関係は単なる師弟という立場よりも、志を同じくする友人という立場に近かったと思われます。

福沢はかねてより会社の設立を志しており、早矢仕の医師だけではない実業家としての素質と才能を見込み、西洋物品輸入の仕事を託します。
そして早矢仕は明治2(1868)年、横浜新浜町の自宅で輸入商社を開業し、書籍を中心とした西洋物品の輸入を始めます。当初、社名は世界を相手にする意味から、地球の球の字をとり「球屋」と名付け、「マルヤ」と呼んでいました。
ところが、人々は「タマヤ」、「マリヤ」などと読み誤ったため、「丸屋」と改めたと伝えられています。
また、丸屋の店主名は「丸屋善八」でしたが、これは早矢仕の仮名でした。 「善八」の名前の由来は、江戸行きを勧めた郷里の中洞村庄屋の高折善六の恩義に因んだと言われています。 ちなみに、その後開設した東京、大阪、京都の各支店の店主名はそれぞれ「善六」、「善蔵」、「善吉」とすべて「善」の字が付けられていました。
そしてこの名前が後の「丸善」の起源となりました。

早矢仕有的の業績

丸善は新時代の先端をゆく書店として発展していきました。
その後、早矢仕は明治12(1879)年丸屋銀行を、明治13(1880)年には貿易商会を開設しました。また同年には丸屋商社を改組し、株式会社丸善商社となりました。
丸善の創設は、福沢の会社組織に関する理念を、早矢仕が日本において初めて実現させたものと言われています。
西洋物品の輸入を通して、欧米の進んだ知識、技術、思想の普及をバックアップし、日本の近代化を進めた早矢仕の業績は大きなものがありました。
明治34(1901)年1月、福沢諭吉が没しますが、後を追うように早矢仕も旅先で重態となり、翌2月に64歳で亡くなりました。
墓は、雑司ヶ谷墓地(東京都豊島区)にあります。

参考文献

  • 『丸善百年史』(丸善、1980年)

いずれも岐阜県図書館蔵書