名前よみ

ふくらい ともきち

生没年

1869年-1952年(明治2年-昭和27年)

解説

日本で大ヒットし、米ハリウッドでもリメイク版が作られたホラー映画「リング」。その日本版の中に、超能力の公開実験の失敗によってマスコミから糾弾される大学教授が出てきます。そのモデルであったと言われる人物が、飛騨高山出身の心理学者・福来友吉です。

福来友吉は、明治2年(1869)11月3日、高山市下向町(現・本町3丁目)で福来喜兵衛・よう夫妻の二男として生まれました。生家は商家であり、友吉も商人にしようという両親の希望で、小学校を卒業しないうちから見習い奉公に出されます。しかし学問好きの友吉には商人になる気がなく、奉公先を次々と変わります。ついに両親が折れ、友吉は、斐太中学校、仙台の第二高等学校(旧制)、東京帝国大学哲学科へと進学します。

大学では心理学を専攻し、明治32年(1899)に大学を卒業した後も、心理学教室にとどまって学者としての道を歩み始めます。明治39年(1906)『催眠の心理学的研究』によって文学博士号を授与され、催眠心理学の第一人者として研究を続けますが、やがて、これまでの学説では説明できないような現象に出くわします。催眠中の被験者が、学術書の内容を透視するという不思議な現象を目の当たりにし、福来の関心は催眠心理学から超常現象・心霊現象へと移行していきました。

明治43年(1910)、ハレー彗星の出現が世の人々を不安な気持ちに駆り立てました。それと相前後して、透視能力を持った熊本在住の女性・御船千鶴子の存在が、千里眼婦人として新聞紙上で評判になります。福来は、何度も千鶴子の透視能力を試す実験を繰り返したのち、その能力は本物であると発表して大センセーションを巻き起こします。東京帝大助教授が認めた千里眼婦人・御船千鶴子の出現は、その後、各地で何人かの超能力者が名乗りをあげる契機となりました。

御船千鶴子の次に、福来が関心をもった超能力者が、愛媛県丸亀在住の長尾郁子です。福来が認めた長尾郁子の能力は、文字を念ずると写真乾板にその文字を焼き付けることができるという念写能力でした。福来が念写能力を認めたという報道は、物理学者たちの大きな反発を招きます。明治44年(1911)1月4日~8日、物理学者たちは、前帝大総長の物理学者・山川健次郎博士をリーダーとするチームを編成して長尾郁子に対し実証実験を行い、その念写能力はトリックであるという発表を行います。
同年1月28日、御船千鶴子は重クロム酸を飲んで自ら命を絶ち、その2ヶ月後の3月26日、長尾郁子もインフルエンザで亡くなり、再び真偽を確かめる道は閉ざされたまま、日本中でもてはやされた千里眼ブームは終わりを告げました。映画「リング」と、その原作の同名小説(鈴木光司著・角川書店)の中で、念写によって呪いのビデオを生み出した超能力者「貞子」の出生と、その母の秘密が明かされるシーンのモデルになったできごとです。

その後、福来友吉は東京帝国大学を辞職し、高野山大学教授になりますが、念写能力を持つ人々に対する実験・研究は続けました。昭和3年(1928)、ロンドンで開催された国際スピリチュアリスト会議に出席して念写研究について発表し、大正2年(1913)に『透視と念写』を、昭和7年(1932)には『心霊と神秘世界』を出版します。
戦後は、青春時代をすごした仙台に移り住み、詩人・土井晩翠、赤痢菌発見者・志賀潔らと東北心霊科学研究会を結成し、東北大学の学生らとともに様々な心霊現象の研究を続けましたが、昭和27年(1952)3月13日、83歳でこの世を去りました。

福来友吉著作写真
岐阜県図書館所蔵の福来友吉著作

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書