名前よみ

かわむら めろじ

生没年

1886年-1959年(明治19年-昭和34年)

解説

1886(明治19)年9月、揖斐郡宮地村願成寺(現・池田町)の河村家に、二人目の男の子が生まれました。弘と名付けられたその子こそ、後の河村目呂二(龍興(りゅうこう))です。
河村目呂二(龍興・以下目呂二)は、大正から昭和初期にかけて活躍した芸術家です。目呂二という号は、音楽のメロディと、敬愛する竹久夢二をもじってつけたものです。この号の響きも、その独創的な活動も、その人柄も、人々の心をあたたかな気持ちにするような芸術家でした。

芸術家を目指すまで

目呂二は、願成寺の豊かな自然の中で幼少時代を過ごしました。河村家は比較的裕福な農家で、目呂二の祖父や父、そして後には兄も、村長や議員などの村の重要な役職をつとめましたが、目呂二ははにかみ屋で人前で話すことが苦手な男の子でした。目呂二は家族に愛されて育ち、特に祖母にかわいがられました。祖母の元にはいつも猫がいて、後年、目呂二が無類の愛猫家となったのも、その頃の体験があったからでした。
大垣中学校(現・大垣北高等学校)に入学すると同時に、目呂二は大垣町(現・大垣市)の寮に入りました。芸術の道を志していましたが、母親のたっての希望で中学卒業後は大阪医学専門学校へ入学しました。しかし芸術への思いを捨てきれず、一年で中退して上京、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫塑科に入学しました。

芸術家としての活躍

「目呂二」という号は、美術学校卒業の1914(大正4)年から使い始めました。この年、上野で開催された大正博覧会に、素焼きに着彩した人形を出品したところ好評だったため、翌年から「目呂二人形」と名付けて制作を続けました。
また、斬新な宣伝や広告で知られたレート化粧品本舗で、デザインの仕事も手がけました。妻・すの子とはこの会社で知り合い、1920(大正10)年に結婚しました。(すの子は本名をはま子といい、雪乃というペンネームを使っていました。目呂二が雪=スノーをもじって「すの子」と呼んでいるうちに本名になってしまいました。)
この頃から、雑誌等への寄稿も、人形や絵画、彫塑などの制作活動も、猫を題材としたものが多くなり、大正末期には愛猫家として知られる存在となっていました。また、音楽家や趣味人と幅広く交遊し、昭和初期の彫刻家集団「構造社」にも推挙されて参加しました。構造社の展示会には第3回(1929・昭和4年)から最終回の第16回(1943・昭和18年)まで毎回出品し、1931(昭和6)年からは、もう一つの号「龍興」も用いるようになり、精力的に活動を展開していきました。
目呂二人形をはじめ、女性や猫を題材にした作品には、目呂二が敬愛していた竹久夢二の影響が見られます。しかし夢二作品のはかなげな印象とは逆に、目呂二作品の愛らしさ、艶めかしさ、華やぎからは、人間がもつ力強さが伝わります。どの作品からも、命あるものをいとおしむような、目呂二のあたたかなまなざしが感じられます。(目呂二の作品は『構造社展 昭和初期彫刻の鬼才たち』などに掲載されています)

奇行の数々のかげには

目呂二の活動は全体として独創的、もっと言えば奇行に満ちていました。
祖母の影響もあって目呂二は猫が好きでしたが、すの子夫人は目呂二以上に猫好きでした。結婚後、東京市本郷区(現・東京都文京区)に家を借りて新居としましたが、捨て猫を拾ってくるうちにどんどん猫が増えて手狭になりました。引っ越そうとしたところ、どこの家主も猫の数を聞いて貸してくれず、しかたなく北豊島郡(現・豊島区)に家を新築しました。多い時には20匹以上の猫を自宅で飼っていて、さらには猫に関するあらゆる物を蒐集するようになり、趣味の蒐集家の交遊会「我楽他宗」に夫人とともに参加するなど、猫を主題にした作品が多くなったのもうなずける、大変な愛猫家ぶりでした。
他にも、日本語の左縦書きを主張したり、版画家の武井武雄とともに自転車愛好家集団「ジャズマニアグループ」を結成して「東海道飛車栗毛」の旅に出たり、チンドン屋まがいのいでたちで「上野人物園」と称して集うなど、陽気さと機知に富んだ活動の数々は、芸術家としての評価がかすんでしまうほどでした。
こうした奇行は、本当の自分を知られたくないというはにかみだったの現れだったではないか、とすの子夫人は述懐しています。体格も良く屈強そうに見える目呂二は、実は繊細で温厚な人でした。身近にいる人たちへの気づかいや思いやりも細やかで、恋仲をとりもつなど面倒見が良く、書生や女中たちを決して呼び捨てにせず分け隔てなく接しました。

軽井沢での晩年

戦争が激しくなってきた1944(昭和19)年、目呂二は軽井沢に疎開しました。その頃から、自由律俳句にいそしむようになりました。1945(昭和20)年には「木通庵」という草庵を建てて、終戦後も東京には戻らずに軽井沢にとどまり、近隣に住んでいた荻原井泉水や堀辰雄、福永武彦らと交流を深めました。
晴耕雨読の生活を、軽井沢でひっそりと続けていた目呂二は、73歳になって間もない1959(昭和34)年9月26日早朝、この日の夜に襲来する伊勢湾台風を知ることなく、そしてかつて活躍した東京の人々に知られることなく、静かに息をひきとりました。
もし目呂二が生きていたとしたら、「岐阜県ゆかりの先駆者たち」などと堅苦しく紹介されることなど、きっと拒んだでしょう。しかし、大正から昭和という、まだまだ因習が根強くあり、戦争へと突入していく時代に、春風のような陽気さと闊達さを失わなかった独創的な活動こそ、目呂二を「先駆者」とする所以でしょう。

参考文献

いずれも岐阜県図書館所蔵

取材協力

山田賢二氏(詩人、岐阜県郷土資料研究協議会理事(取材当時))