名前よみ
おかだ ただじ
生没年
1850年-1914年(嘉永3年-大正3年)
解説
大きな川に橋を架ける技術がなかった時代、渡し舟は旅人や荷物が川を渡る大切な手段でした。それは大昔の話ではなく、岐阜県内では昭和20年代まで20箇所をこえる渡しがありました。明治期にはなおさらで、明治14年末県内の渡船場は172箇所に上りました。(明治14年岐阜県統計表による)
その当時の渡し舟は、船頭が櫓や櫂を操って川を渡る人力船でした。そのため人々は、夜間や増水時には川を渡ることができずに大変苦労し、時には生命に関わることもありました。
そうした人々の苦労を救い、いつでも安全に川を渡ることができるよう工夫されたのが岡田式渡船でした。
岡田式渡船では、船頭が櫓や櫂を操る替わりに、両岸に張り渡したワイヤーと滑車を使って川を渡りました。水の流れる力を利用するため、大きな力を必要とすることもなく、増水したときにでも安全に渡ることができました。
また、従来の渡し舟より大型化することで、一度にたくさんの人や荷物を運ぶことができるようになり、利便性も大きく向上しました。
山県郡戸田村(現在の関市保戸島)出身の岡田只治氏によって明治30年頃に考え出され、地元の長良川を渡るために取り付けられたのをはじめとして、明治34年には木曽川太田の渡し(現在の美濃加茂市太田-可児市今渡間)に取り付けられ、明治36年には「岡田式渡船装置」の名称で特許を受け、最盛期には四国の吉野川など全国60箇所余りで使われました。
近代の交通事情に大きな変革をもたらした彼の渡船装置でしたが、架橋技術の発達により、徐々にその役割を終えました。地元関市千疋の渡船も昭和35年には廃止されました。
岡田只治氏は「岡田式渡船装置」の考案以外にも、さまざまな発明や事業で地元の発展に尽くしました。彼の生まれた戸田村は長良川の本流と支流の今川に挟まれた島になっており、ひとたび増水すると、住民は交通が途絶するのみならず、しばしば、洪水、堤防の決壊により生命財産を脅かされる厳しい生活環境におかれていました。
そんな状況の中で、彼は住民の生活・安全の向上に尽くします。治水においては、「岡田式正流護岸装置」、八の字堰堤を考案・構築し、農業改良においては、稲作改良、養蚕飼育法を研究し、桑切鋏を考案しました。
なかでも、各務用水の開発は大勢の人の利害が絡む中での大工事でしたが、優れた技術力と粘り強い交渉により完成し、これによって芥見村(現岐阜市芥見)をはじめとする近隣が水不足に困ることがなくなり、荒地を水田にすることが可能になりました。
庄屋の家に生まれた彼は、明治8年に若くして戸長になり村をまとめていく傍らで、住民の生活の向上のために力を尽くし、私財も投入して、東奔西走し続け、大正3年に65歳で病没しました。
今、郷里にはその功績をたたえた顕彰碑が建てられています。

参考文献
- 『岐阜県史 通史編 近代中』(岐阜県、1970年)
- 『岐阜県史 通史編 近代下』(岐阜県、1972年)
- 『岐阜市史 通史編近代』(岐阜市、1981年)
- 『山県郡志』(山県郡教育会、1918年)
- 『関市史』(関市教育委員会、1967年)
- 『新修関市史 通史編 近世・近代・現代』(関市、1999年)
- 『先人の生涯と業績』(岐阜県教育委員会、1959年)
- 『濃飛偉人伝』(岐阜県教育会編、大衆書房、1971年)
- 『濃飛人物史』(岐阜県歴史教育研究会編、教育出版文化協会、1980年)
- 『郷土の人物』(岐阜市初等教育研究会修身教育研究部、1934年)
- 『岐阜県郷土偉人伝』(岐阜県郷土偉人伝編纂会、1933年)
いずれも岐阜県図書館蔵書