名前よみ

せきや きよかげ

生没年

1854年-1896年(安政元年-明治29年)

解説

日本は世界有数の地震国です。日常的にこれほど地震を感じる国はないといわれ、毎年のように人的物的被害をもたらす規模の地震が起きています。近年では阪神淡路大震災による大災害が記憶に新しいところではないでしょうか。また、近い将来に東海大地震、東南海地震などの大きな地震が起こる可能性が高いとされ、その対策や予知が注目されています。このように地震に関心の強い日本だからこそ、世界ではじめての地震学会が結成され、世界ではじめての地震学教授が誕生しました。それが、岐阜県大垣市出身の関谷清景でした。

関谷清景は、安政元年(1854)12月11日、大垣藩士関谷玄助・妻ユキの長男として、現在の大垣市歩行町に生まれました。藩校では野村藤陰に教えを受け、また個人的に江馬春齢に蘭学を学びました。たいへんな勤勉家で、明治3年には政府が開いた大学南校に大垣藩を代表する貢進生2名のうちの一人として選ばれました。学校が大学南校から南校、開成学校、東京開成学校と名称・制度を変えていく中、清景は学問を続けました。明治9年には文部省による第2回留学生に選ばれ、機械工学の勉強を目的としてイギリスへ渡りました。
イギリスでは、10月よりロンドン・ユニバーシティカレッジに入学しましたが、翌明治10年春には肺結核を発病し帰国を余儀なくされました。10月日本に帰着したときには病状がたいへん悪くなっており、その後1年8ヶ月近く神戸で療養していました。温暖な気候の地での療養の甲斐あり、健康状態がよくなったことから、明治12年6月、神戸師範学校の事務職に、3ヵ月後の9月には副校長の職に就きました。

明治13年4月、東京大学地震観測所の助手として招かれ、翌年6月には助教授となりました。この地震観測所は、機械工学の教授でスコットランド生まれのユーイングが作りました。彼は正確で精密な地震計を作り、地震観測の記録を取り始める等、地震学の始まりに大きく貢献しました。もともと機械工学が専門の清景はユーイングのもとで地震の観測や研究の技術・方法を学んでいきました。
清景が東京へ戻る直前の明治13年3月、世界ではじめての地震学会である日本地震学会が結成されました。この学会は日本に滞在する外国人学者が中心となって結成されました。なかでも中心となったのがイギリス人のミルンでした。彼は本来地質学が専門でしたが、地震学に熱意を持ち学会を主導していきます。そして日本語の出来ないミルンを助け、彼から学ぶことで地震学を確立していったのが清景でした。

清景は、地震の実態を知るために日本中にわたる地震観測網をまとめ上げ、また一般への地震に対する知識啓蒙のため英文で出版されていた日本地震学会の機関誌論文を和訳して発行し、あるいは自分でも論文を発表しています。こうした活動が認められ、清景は明治19年3月帝国大学において地震学の教授となりました。世界ではじめての地震学の教授が誕生したのです。
彼は机上の研究のみならず、大きな地震があると現地へ出向き、詳細な調査を行ないました。肺結核を患って以来、病弱の彼にとってこのような調査はかなりの負担でしたが、自分のやり方を変えようとはしませんでした。
明治21年の会津磐梯山爆発の現地調査の際には、とうとう肺結核を再発させてしまいました。さらに翌年にも、周囲の反対を押し切って熊本で起きた地震の調査に赴き、さらに病状を悪化させ、またしても療養を余儀なくされます。神戸での療養生活中の明治24年8月、理学博士の学位を授与されました。
明治24年10月には濃尾地震が起きました。体調の回復しない清景は数回にわたり告知文を発表することで人心の動揺をおさえるよう努めました。その後病身を押して現地へ向かい更に健康を悪化させました。

明治25年には、震災予防調査会が組織され、清景も委員として参加しました。この会は実質的には日本人による地震学会であり、清景が中心的存在でした。この会において清景が行ったもっとも大きな事業は『大日本地震史料』の編纂であり、彼の死後に完成をみました。その後は東京大学地震研究所に引き継がれ『新収日本地震史料』として引き続き編纂がされています。また、この会の「調査事業概略」はその後の地震学研究の指針となりました。

このように清景は療養しながらも、少し健康が回復すると、論文を書き調査を行い会議に出席するなど無理を重ねてゆきます。そして明治29年1月8日、療養先の神戸須磨禅昌寺で喀血し亡くなりました。病身を押して学問を続け、揺籃期にあった地震学を体系付け、その後の基礎を作った清景の功績は誠に大きいといえるでしょう。

「関谷先生誕生之地」の碑写真
「関谷先生誕生之地」の碑(大垣市歩行町)

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書