名前よみ

たけかわ きゅうべえ

解説

江戸時代中期に、飛騨の山里を飛び出し、四代にわたって北海道の開拓に携わり、巨額の財をなした商人がいました。温泉で有名な下呂の武川家です。屋号を飛騨屋と称し、代々の当主は久兵衛を名乗りました。

武川家が北海道の開拓に乗り出したのは、四代目の倍行(ますゆき)の時でした。元禄8(1695)年、倍行は弟藤助を伴って江戸へ出ました。江戸では木材市場を調べ、木材商と親交を深めます。元禄13(1700)年、奥州南部大畑(現青森県下北郡大畑町)に活動拠点を設け、飛騨屋を開業し初代久兵衛を名乗りました。
元禄15(1702)年には、海をわたり松前福山(現北海道松前郡松前町)に店をかまえ、海産物の取引と木材の江戸への輸送をはじめました。享保3(1718)年には、松前藩から許可を取り、本格的に木材の伐出しをはじめました。
当時の北海道は、松前を中心とした道南の一部が開拓されているのみで、ほとんどが未開の原野でした。
臼山(有珠山)流域から始めた伐採の請負を、東は沙流・厚岸へ、西は石狩・天塩へと広げ、同時に海産物、米、酒の交易などへと事業を拡大していきました。
郷里下呂に本店を置き、大畑、松前、京都、大阪に支店を置いて精力的に活動した倍行は、享保13(1728)年、郷里に近い下原村(現益田郡金山町)で55歳の生涯を終えました。

後を継いだのは、初代久兵衛の甥にあたる倍正(ますまさ)でした。彼は寛保2(1741)年に45歳でなくなるまでの間、わずか十年余りでしたが、新たな場所の木材伐出しを始めるなど、家業の拡大に尽力しました。

三代目久兵衛をついだのは、息子の倍安(ますやす)で、そのときわずか7歳でした。後見役の今井所左衛門がよく働き、倍安も長じて後は力を揮い、飛騨屋はますます利益を上げていきました。
最盛期には、日本を代表する豪商のひとつに数えられるまでになった飛騨屋でしたが、やがて事業に陰りが見え始めました。使用人の不正、松前藩による圧力などにより、木材の伐採事業から撤退することを余儀なくされました。
かわりに場所請負による交易に活路を見出そうとしましたが、国後のトウブイの乙名ツキノエとのトラブルやロシア人の南下による情勢の変化などに翻弄され続けました。
また、元使用人の浅間嘉右衛門が松前藩の役人と結託して飛騨屋の請負場所を奪おうとしたため、これに抗して幕府へ訴えを起こしました。この訴えは、飛騨屋の言い分を認める形で決着しましたが、役人と争ったことで、倍安は家業を息子に譲ることになりました。

天明2(1782)年、倍郷(ますさと)が16歳で第四代久兵衛となりました。彼は父の代に傾きかけた家運を立て直すべく奮闘しました。しかし持船の遭難、松前藩による場所直接経営の開始、国後の乱など、飛騨屋にとってはさらに苦難が続きました。
寛政3(1791)年、倍郷はついに福山や大畑の支店を閉じて、飛騨へ引き上げました。ここに、四代91年にわたる飛騨屋の活動は、莫大な借財を残して幕を閉じました。
郷里へ戻った倍郷は、名主を勤める傍ら、材木運送を手がけるなどして、文政7(1824)年にはついに借財の整理を終えました。

飛騨屋四代にわたる活動を物語る文書・文物は、下呂の町に今も残る武川家に伝えられてきましたが、平成4(1992)年に岐阜県歴史資料館へ寄託されました。これらの文書などは、『武川久兵衛家文書目録』として整理され、利用することができます。

下呂の温泉街を眼下に望む高台に、寛文11(1671)年建立の温泉寺があります。武川家第三代倍良(ますよし-初代飛騨屋久兵衛倍行の父)は、この寺の建立にあたり、持ち山を寺地・境内として寄進しています。この寺の山門へと続く石段の両側は墓地になっており、武川家代々の墓も並んでいます。

*注:年号・事跡について、参考とした各書に若干の異同がありました。ここでは、『飛騨下呂 通史・民俗』を典拠として、年号・事跡をとりました。

武川家代々の墓写真
武川家代々の墓 下呂町湯之島温泉寺墓地内(岐阜県指定文化財)

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書