名前よみ

たなはし げんたろう

生没年

1869年-1961年(明治2年-昭和36年)

解説

明治の始めに生まれた棚橋源太郎は、日本の理科教育を開拓し、博物館の基礎を築くという偉業を成し遂げ、今日の私たちに多大な恩恵を与えてくれています。

学生時代の源太郎

棚橋源太郎は、明治2(1869)年、美濃国方県郡木田村(岐阜市)南柿ヶ瀬で生まれ、本巣郡北方村(北方町)森で育ちました。
明治9(1876)年、北方小学校へ、同18(1885)年、岐阜県華陽学校師範部へ入学します。
この頃、後に昆虫翁といわれる名和靖が、北方小学校と華陽学校で博物学や農業を教えながら昆虫の研究をしており、名和との出会いが後に源太郎の進路に大きな影響を与えます。
明治22(1889)年、20歳で同校を卒業後、同校の付属小学校に勤務しましたが、同25(1892)年、将来の教育界を背負って立つエリートの集まりである東京高等師範学校の博物科に入学しました。

青年教師源太郎

高等師範学校を卒業後、明治28(1895)年、名和靖の後任として、郷土岐阜の尋常師範学校教諭として着任し、名和とは道路一本隔てた向かい合わせの家に住み、一緒に昆虫採集などを行いました。
源太郎は生徒に、「I will try」という言葉を好んで使い、「確かめてみる」ということの大切さを教えました。
明治30(1897)年、結婚し子供が生まれましたが、招かれて東京高等師範学校の付属小学校で勤務することとなりました。
源太郎は、その頃としては新しい、経験学習、郷土を愛する心、環境や生態系の重視など今日では普通に行われている授業の先駆となる「直観教授」、「郷土科」を特設しました。また、『尋常小学校に於ける実科教育法』を出版するなど、多くの著作や論文を執筆しました。

博物館との出会い

当時東京高等師範学校には付属教育博物館が併設されており、源太郎は博物館の主事として、施設・所蔵品のPR、日本や外国の教育の歴史や現状の紹介、講演会の開催などを行い、積極的な博物館経営により利用は大きく増えました。
明治42(1909)年、博物学研究のためドイツ、アメリカへ2年間留学し、各種の博物館を精力的に回りました。
源太郎には一般大衆に科学的知識を学ばせたいという構想があり、実際に生きている動物を展示したり、ジオラマや拡大鏡を使った鉱物表面の拡大展示、ボタンを押したり、まわしたりという展示方法を日本で初めて行いました。多くの特別展覧会を開き、一躍東京の名所となるほどでした。

博物館とともに

大正13(1924)年、源太郎は退官し、翌14(1925)年、博物館調査のため再びヨーロッパへ旅立ちました。
在欧中は精力的に活動し、後にローマ法王よりコマンドール勲章を贈られています。
翌15(1926)年帰国し、日本赤十字参考館(後の赤十字博物館)開館に取り組み、以後20年間同館に勤務をすることとなりました。その間多数の特別展の開催や館報の発行を行い、衛生知識の普及に努めました。
昭和5(1930)年、留学で得た知識を基に、『眼に訴へる教育機関』を出版しました。この書は広く博物館について書かれており、博物館学の基本図書の一冊となりました。
昭和6(1931)年、設立に尽力した東京科学博物館が上野に開館しました。源太郎は全国の博物館などの文化観覧施設をさらに充実発展させる決意を新たにしていました。

終戦後の源太郎

終戦後、源太郎は空襲による家の焼失、長男の源一郎の戦死等の不運を乗り越え、「日本博物館協会」(以後「協会」)の仕事に打ち込みました。昭和26(1951)年、念願であった博物館法が制定された後、「協会」の専務理事を退職し、顧問となりました。
昭和28(1953)年、立教大学の講師として博物館学の講義を行い、以後7年間、83歳の源太郎は1回の休みもなく週1回電車を乗り継いで学校へ通い、2時間の講義を続けました。
昭和33(1958)年、社会教育への功労として藍綬褒章を授与されました。翌34(1959)年には国際博物館協会の名誉会員に推挙され、世界で3人目の栄誉を受けました。
昭和36(1961)年4月3日、惜しまれながら91歳の生涯を終え、勲三等瑞宝章が追贈されました。
業績を顕彰するため、「協会」では棚橋賞を設け、優秀な博物館研究に授与することとなりました。
また、出身地の岐阜県博物館協会でも、県博物館の発展に寄与した人に棚橋記念賞を授与しています。
信念の人、無欲の人、努力の人と言われる棚橋源太郎は、日本の教育や博物館の発展に実に偉大な業績を残しています。

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書