名前よみ

とだ きんどう

生没年

1850年-1890年(嘉永3年-明治23年)

解説

戸田欽堂は、幕末の大垣藩主戸田氏正の側室の子として、嘉永3年、大垣城内で生まれました。幼名は唯之助といい、のち三郎四郎氏益と改め、明治維新後からは欽堂と名乗りました。明治4年に異母弟で大垣藩最後の藩主となった氏共(うじたか)とともにアメリカに留学し、帰国後はキリスト教の伝道と自由民権運動に傾注します。明治13年に著した『情海波瀾』はわが国最初の政治小説といわれています。

生い立ち

欽堂は、父に大垣藩主戸田氏正、母に高島嘉右衛門(高島易断の祖)の姉せん(高島家の系図上はキテ)をもつという、戸田伯爵の系列にありながら、一方で豪商高島家の血筋をひく恵まれた境遇にありました。
安政2年には、分家で旗本の戸田阿波守氏寿の養子となります。幼少期には藩のしきたりによって漢詩文、書道等を習い、10代後半からは洋学に励みました。
明治4年、21歳の時、藩主氏共とともに渡米遊学をしました。渡米中にはキリスト教の洗礼を受けたといわれています。

"モダンボーイ"戸田欽堂

アメリカに渡った翌年に欽堂は帰国し、銀座に「九星堂」という洋物店を開きました。九星堂の名は戸田家の家紋である九曜の星に由来します。また、同じキリスト教徒であった原胤昭らと共同で十字屋を創業し、聖書などを販売しました。島崎藤村は『桜の実の熟する時』のなかで、『ナショナル読本』を買ったのが十字屋だった、と書いています。
現在でも十字屋は楽器店として知られていますが、そのきっかけをつくったのは欽堂の発明とされるオルゴールに似た楽器「紙腔琴(しこうきん)」でした。仕掛けは、ハンドルを回すと蓋の下から空気が入ると同時に穴の開いた紙片が通過して、穴の配列に従って音曲を流すというものでした。
欽堂は次第に十字屋の経営から離れますが、彼が残した"モダン"な店の雰囲気は当時の人々の心をとらえ続けました。

自由民権運動家として活躍

西南の役ののち、自由民権運動が活発化すると、明治11年、欽堂は北辰社や愛民社という民権結社をつくり、民権思想を広めるため各地で演説会を開きます。そのかたわら小説家として『情海波瀾』『吾妻ゑびす』などの政治小説を書いていきました。なかでも明治13年に出版された『情海波瀾』は彼の代表的作品であり、日本最初の政治小説とされています。
『情海波瀾』に登場する主な人物は、売れっ子の芸妓魁屋阿権(さきがけやおけん)と比久津屋奴(ひくつややっこ)、客の男和国屋民次(わこくやみんじ)と国府正文(こくぶまさぶみ)で、それぞれ阿権は自由民権思想、奴は封建的旧思想、民次は国民、正文は明治政府に寓されています。芸妓と客との恋のさやあてを描いた戯作という体裁をとりながら、国民は最後には自由民権を自己のものにし、政府は国会を開設する、という寓意が含まれているのです。
欽堂はその後も国会開設建議の草案を書いたり、また各種の新聞で自由民権運動の論陣を張ったりと、華族出身の民権運動家として活躍します。

キリスト教の伝道と自由民権運動に力を注いだ戸田欽堂でしたが、病のため41歳という若さで亡くなります。明治23年のことで、それは国会開設の年でした。

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書

戸田欽堂著作

  • 『情海波瀾』(1880年)
  • 『薫兮東風英軍記』(1882年)
  • 『論理学』(ゼボン著、戸田欽堂訳、1886年)
  • 『吾妻ゑびす』(1887年)
  • 『花柳粋史 第1号~第3号』(戸田欽堂編、1887年)

いずれも岐阜県図書館蔵書