名前よみ

とみた かね

生没年

1873年-1957年(明治6年-昭和32年)

解説

富田学園は、明治39年に岐阜市西杉山町(現梅ヶ枝町)に創立された私立富田女学校(現私立富田高校)が始まりです。創立者の富田かねは、良妻賢母の育成を目標として、裁縫を中心にしつつ、一般教養科目も取り入れ、広い人格形成を目指しました。女子教育に生涯をささげた富田かねは、教育功労者として昭和3年、藍綬褒章を受けました。

生い立ち

富田かねは明治6年、揖斐郡大和村(現揖斐川町)に生まれました。兄が東京に遊学していたことから、かねも東京に出て、渡辺裁縫女学校の塾に学びました。とくに裁縫には力を注ぎ、わざわざ京都から師匠を招くなどして、技能を習得していきました。また、兄からは一般的な教養に関する指導を受けました。
明治27年には、小学校裁縫準教員の免許状を受け、翌年揖斐郡池田村の専科準訓導となります。その後、裁縫教員免許状を受け、岐阜市立高等女学校助教諭、岐阜高等女学校教諭となりました。こうして、かねは女子教育の道を進むこととなったのです。

私立富田女学校の設立

自分の信念に基づいた女子教育を行いたいという思いを抱いていた富田かねは、岐阜高等女学校の教職を辞して、明治39年に「私立富田女学校」を設立しました。
校舎は、民家を借り受けたものを代用してのスタートでした。開校に先駆け、『岐阜県教育会雑誌』に広告を出したこともあって、最初の入学志願者は59名となりました。
同校は最初から普通科・高等科・師範科・研究科などを備えており、とくに師範科は、教員を志願する者にとっては格好の学びの場となりました。
明治40年3月には第1回卒業式が挙行され、師範科の19名が卒業しました。
その後、富田女学校は発展を続け、生徒数も増加していきました。そこで、明治45年、八ッ梅町に新校舎を建築移転しました。大正11年には、富田高等女学校を併置することになります。

良妻賢母の育成

富田かねが私立富田女学校の設立によって実現しようとしていた信念は、良妻賢母の育成でした。当時の高等女学校の教育が実生活から離れたものにみえたかねは、裁縫を中心に位置づけ、実際に役に立つ女子教育を目指しました。
教科は「裁縫」に重きを置き、「家事」「修身」をはじめ、「編物」「染色」などの教科を取り入れました。 校長に就任したかね自身も「修身」「家事」「裁縫」の三教科を受け持ちました。
『岐阜県教育会雑誌』第204号(明治44年9月)の「私立富田女学校近況」という次の記事が当時の様子を伝えています。

「教育の主義は実地に重きを置いて勤勉なる婦人を作るにあり。一年四季衣類の仕立より洗濯まで一切他人の手を借らざるを主義とし、嫁入仕度の衣類装飾品も大部分は自分の手にて此処にて作らるるが多し。名こそなけれ実は実科高等女学校の特色を帯ぶるもの。富田校長は此点に於て先見の明に誇るを得へし。」

かねは、夏期休暇にも小学校の先生を対象とした講習会を開き、手芸一般の教育に力を入れました。この講習会には、在校生、卒業生、一般女性も多数集まり、好評を得ていました。参加者も毎年増え、県内はもとより、近隣の県からの参加者もいました。
このような教育への尽力により、昭和3年、御大典に際して、教育功労者として藍綬褒章を受けました。

昭和11年に創立30周年を迎えた富田女学校は、さらなる発展を遂げます。そして、昭和19年に財団法人岐阜市富田高等女学校の設立が認可されました。
ところが、昭和20年の空襲により全校舎を焼失してしまいます。しかし、その翌年には、岐阜市長森野一色の現在地に移転し、新たな出発をしました。昭和26年には、学校法人富田学園の設立が認可されます。
その後、昭和31年には創立50周年記念式を挙行することになりました。しかし、創立者の富田かねは、その翌年、学校教育に捧げた84年の生涯を閉じました。

参考文献

  • 『実験裁縫全書』(富田かね著、1939年)

いずれも岐阜県図書館所蔵

参照ウェブサイト