名前よみ

つぼい いすけ

生没年

1843年-1925年(天保14年-大正14年)

解説

竹の有用性が改めて見直される時代になりました。
竹細工の材料として、あるいは食材としての筍の栽培など、これまでも様々に使われてきましたが、一方で繁殖力の強さが災いして厄介者扱いされることもありました。
それが最近では、竹炭や竹酢液が環境に優しく健康によい材料としてもてはやされ、また成長が大変早く繁殖力が強いことから、有望なバイオマスとして期待されて、新たな用途が研究されています。

その竹の有用性に目をつけ、今から150年以上も前に研究を行い、日本一の竹林翁と呼ばれた人物が岐阜県にいました。
池田郡草深村(現揖斐郡池田町草深)出身の坪井伊助です。

伊助は、安政2年(1855)わずか12歳で草深村庄屋役見習となり、文久2年(1862)からは庄屋役を勤めます。
明治になると村会議員、郡農会役員、郡会議員、県会議員、地方森林会議員、岐阜県会評議員となり、これらの公職を誠実に勤めました。

多くの公職を歴任し、多忙の身でありながら、一方では農業改良にも力を注ぎ、地元の発展に尽くします。
明治5年には、池田山の麓がお茶の栽培に適しているとして茶樹を植え、また、全国から桑の木の種を取り寄せて、品種改良を行い、養蚕を奨励しました。さらには大野・池田両郡の有志とともに、県下で初の農業団体となる農談会を作りました。

こうした公私両面での活動の中で、伊助がもっとも力を注いだのが竹の研究でした。
彼が竹の栽培に取り組むことになったのは、お茶の栽培に取り組んだのと同様に、いかに地元池田山山麓の地形・地質を生かすかを考えたからでした。
池田山山麓の地形は扇状地であり、砂礫が多く地味もやせているため、農作物の栽培に不向きでした。彼の地所には竹木混交の藪が約4町歩(約4ヘクタール)ありましたが、そこからはわずかばかりの収入しかあがりませんでした。ところがある年、竹の販売によって予想外に多くの利益を得ることができたことから、竹林を改良し一反あたりの収穫高を上げることができたら、地元の利となるのではと考えました。

明治14年(1881)、自宅近くに試作地を設けて研究を始めます。いかにしてよい竹林を作るか、どんな手入れ保護を必要とするかを目的に研究を始め、竹の種類や分布、植栽法の改良、自然枯の原因と予防、害虫の駆除、人工変形など、竹に関わるあらゆる研究に取り組みました。
また、竹の種類や病害・自然枯の調査のために、日本国内はもちろん台湾や中国にまで出かけました。その回数は150回余りに及んだと言います。

彼は調査に出かけては、新たな種類の竹を、その産地での環境や生育状況、栽培方法をつぶさに調べた上で持ち帰り、試作地で栽培を行いました。一度で根付かない場合は、二度三度と出かけては丹念に集めていきました。
こうして、彼が作った竹類標本園は、日本産の竹類をほとんどを集め、よく分類・整理され、当時日本唯一の竹類植物園として全国に知られていました。全国の植物学者・竹林経営者・同好者がここを訪れては、その収集の膨大さ、緻密さに驚嘆したと言います。

また、彼の生涯をかけた研究は、大正2年(1913)に発行された『実験竹林造成法』と大正3年(1914)に発行された『坪井竹類図譜』の2冊の著作にまとめられました。
『実験竹林造成法』は30年あまりの研究成果として、栽培法をはじめとして竹林経営に関するあらゆる事項が取り上げられています。
『坪井竹類図譜』は長年かかって集めた竹類について、彩色図版100葉あまりと解説文とで構成されています。
これらの2冊は竹類を研究する上では欠くことのできない文献として今日でも利用されています。

伊助は、竹の研究を続けること40年あまり、大正14年(1925)に83歳で亡くなりました。
残念なことに、彼の死後、標本園は時代の荒波にもまれ荒廃していきました。十分に管理されないまま、生育の盛んなマダケとタイワンマダケが、他の竹・笹を圧倒して繁茂したため絶滅した種も多くありました。
現在では、この標本園はすっかりなくなってしまいました。
しかし、大正末年から戦前にかけて、標本園の一部が各地へ分譲され、今でも貴重な研究資料として栽培・管理が続けられています。岐阜県内では、養老公園の竹類見本園や県立森林文化アカデミー演習林(美濃市)で見ることができます。

岐阜県図書館所蔵の坪井伊助著作2点画像
岐阜県図書館所蔵の坪井伊助著作2点
『坪井竹類図譜』(大正5年発行の再版)(左)
『実験竹林造成法』(大正6年発行の再版)(右)

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書