名前よみ

わだ とくたろう

生没年

1857年-1899年(安政4年-明治32年)

解説

春陽堂は、明治・大正文学を語る上でなくてはならない出版社と言えます。その代表的な文芸誌「新小説」には、泉鏡花「高野聖」、夏目漱石「草枕」、芥川竜之介「枯野抄」など、現在でも読み継がれている名作が多く掲載されました。この春陽堂を裸一貫から興した人物が、和田篤太郎(鷹城)です。

春陽堂の創業

和田篤太郎は、1857(安政4)年、不破郡荒川村(現大垣市)に生まれました。生家は、後に彼の郷里を訪れた春陽堂社員によると「名主格のしっかりした」農家だったということです。
16歳で上京した篤太郎は、警察官を志し巡査となります。明治10年に起こった西南戦争にも志願して従軍しました。しかし生還後、思うところあってか巡査をやめ、書籍の行商を始めました。春陽堂の開業ははっきりしませんが、明治11年頃のこととされています。2年ほど後、東京の芝に書店を開きましたが、三尺ばかりの棚にわずかな書籍が並べられただけのごく小さなもので、篤太郎は店先で自分も本を読みながら売っていたと言われています。
出版業に進出したのは明治15年からでした。最初に刊行したものは絵草子類でしたが、やがて翻訳出版を中心に地歩を築いていきます。この頃刊行したものには、ヴェルヌ「三十五日間 世界旅行」(井上勤訳)デフォー「魯敏孫漂流記」(牛山良助訳)などがありました。

「新小説」隆盛までの曲折

明治21年夏、篤太郎は常から親交のあった作家・須藤南翠に文芸雑誌の創刊をもちかけました。「利益のためではなく、春陽堂の真価を知ってもらうため」という篤太郎の意気に感じ、南翠も大いに賛同します。しかし、雑誌の刊行は思うように進まず、同年10月、ライバル金港堂の文芸誌「都の花」が先に創刊されることになりました。数か月遅れて明治22年1月、春陽堂から「新小説」が刊行されましたが、後塵を拝する形となった「新小説」は振るわず、翌23年には自然消滅してしまいます。
しかし第1期「新小説」の挫折にも関わらず、春陽堂は出版界での基礎を固めていきました。日清戦争の戦況報告や画集の出版に人気が集まったこと、文壇の新鋭、尾崎紅葉との関係を深めたことで、春陽堂は飛躍的な発展を遂げました。
そして明治29年7月、第2期「新小説」の創刊に踏み切ります。幸田露伴を編集主任に迎え、新人の発掘を積極的に行いました。以後「新小説」は新人作家の登龍門となっていきます。

春陽堂の「髯」

篤太郎は創業者らしい一徹さと、義侠心をあわせもった人柄で、当時の文壇から『春陽堂の「髯」』と一目も二目もおかれる存在でした。親しくしていた作家の石橋忍月が知人の学生の援助を頼んだところ二つ返事で承諾したことや、内田魯庵を相手に、魯庵が「イキナリ横面を殴られたやうな」と書き残すほど激しくやりあったことなど、多くのエピソードが残っています。
また、締め切り前の作家を執筆に専念させるため、ホテルなどに「缶詰」にしたのも、篤太郎が最初と言われています(なお、「缶詰」第1号の栄誉を担ったのは、当時の流行作家・川上眉山でした)。

第2期「新小説」の創刊から2年半後の明治32年2月、篤太郎は42歳の若さで病没しました。春陽堂は妻うめに受け継がれ、その後も文芸出版の大手として多数の全集・叢書を刊行していきました。現在も春陽堂書店の社名で、時代小説や種田山頭火の俳句関係書などを出版しています。

篤太郎時代の春陽堂出版物写真
篤太郎時代の春陽堂出版物(岐阜県図書館所蔵)
左:坪内逍遥『春迺家漫筆』明治25年(1892年)
右:西村三郎編『近古慷慨家列伝』明治18年(1885年)

参考文献

いずれも岐阜県図書館所蔵

参照ウェブサイト