名前よみ

やいた きんべえ きよさだ

生没年

1502年-1570年(文亀2年-元亀元年)

解説

日本で最初の鉄砲が種子島銃であることは良く知られていますが、作ったのが実は関の刀鍛冶であったことはあまり知られてはいないのではないでしょうか。
その人の名は八板金兵衛清定と言います。
種子島西之表市に残る『八板氏清定一流系図書』には、彼について「濃州関之鍛冶善刀剣為産業而来」と記されています。

天文12年(1543年)8月25日1隻の南蛮船が種子島に流れ着きました。
時の島主種子島時尭(ときたか)は乗っていたポルトガル人より2丁の鉄砲を入手し、その威力に驚き、家臣に火薬と鉄砲の製法を学ばせます。その時、鉄砲の製造を命じられたのが、関から移住していた金兵衛でした。仲間の助けを得ながら、関鍛冶の高い技術で取り組みました。
しかし、当時の日本にはネジがなく、銃身の後部を塞ぐのに大変苦労しました。
翌年再び訪れた南蛮船に乗っていた鍛冶より尾栓の製法を学び、鉄砲を完成させます。

金兵衛が作成した鉄砲は、またたくまに日本中に広がり、その後の戦の方法を大きく変えていきました。また、ネジの製法を学び伝えたことも、日本の産業の発達を考えるうえで、金兵衛の大きな功績と言うことが出来るでしょう。

種子島には、金兵衛が娘の若狭をポルトガル人の妻とすることで、鉄砲製造の技法を伝授されたとの伝承があり、若狭の墓や若狭を記念して名づけられた「わかさ公園」があります。

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書