名前よみ

やながわ こうらん

生没年

1804年-1879年(文化元年-明治12年)

解説

梁川紅蘭は、有名な漢詩人である梁川星巌(やながわ せいがん)の妻です。

夫の星巌は、美濃の文化を代表し、頼山陽と並んで19世紀初頭の日本文学における二大巨星といわれています。また、幕末の京都で、天皇の主導権のもとに海外からの侵略をはねのけようとする、いわゆる尊皇攘夷を提唱するなど政治活動も行ない、安政の大獄に連座して生涯を終えた詩人です。

紅蘭は、1カ所に安住することを拒みひたすら歩きまわり、波乱に富んだ夫の星巌と行動をともにするなかで、夫から強い影響を受け詩人として育っていきます。

紅蘭は、文化元年(1804)3月15日美濃国安八郡曽根村(現大垣市曽根町)に生まれ、夫の星巌とはまたいとこです。14歳のとき、星巌が江戸から帰って自宅で近隣の子弟を集めて開いた「梨花村草舎」と名付けられた塾に入ります。勝ち気な紅蘭は進んで入塾したようです。優秀な弟子であった紅蘭は17歳の春に、師である32歳の星巌と自ら望んで結婚します。

新婚早々、夫の星巌は行き先を告げることもなく一人で旅に出ます。星巌は、「留守の間にこの中の絶句のところぐらいは暗記しておくように」と言い残して紅蘭に『三体詩』(唐代の詩人167人の詩を七言絶句・七言律・五言律の三体にわけた編書・6巻)を渡します。星巌が家に帰ってくる2年の間に、彼女は絶句だけではなく全巻を暗記します。この有名なエピソードは勝ち気で熱心な紅蘭もさることながら、結婚当初から妻を詩人として育てたいという星巌の積極的な意図があったことを物語っているといわれます。

夫の放浪癖を身をもって知った紅蘭は、その後の旅は同行することを決心します。伊勢から山陽路を西に向かい九州に入り長崎まで訪れた西国の旅は、曽根村に戻ったのが4年振りという長旅でした。2人の旅は、詩を愛し経済力のある友を頼っての旅で、その日その日の風まかせの旅でしたが、この若き日の放浪の旅が、紅蘭の詩情をふくらませていきました。

この旅の6年後、紅蘭は夫とともに江戸へ出て12年間住み、また曽根村に帰りその1年後、京都に移ります。紅蘭は夫に良く仕えたといわれ、毎日琴をひいて夫をなぐさめるやさしさをもっていましたが、隣家に声が届くような猛烈な夫婦喧嘩もよくしたそうです。

安政5年9月、夫の星巌が当時京都で流行していたコレラに感染して急死します。直後に安政の大獄が起こり、勤王の志士たちと関わり幕府からその首謀のように見られていた星巌の身代わりとして、紅蘭は捕えられ投獄されます。

彼女は厳しい尋問にあいながらも「あなた方はお役目のことや国家の大事を妻君にも話すのですか。夫は死に際にも私を寄せ付けなかったほどの男です。それほどの大事をどうして女の私に話したりするものですか」と弁舌さわやかに答えたそうです。何日拘置しても白状させることができず半年で放免となりました。

出獄したとき紅蘭は56歳になっていました。それからは私塾を開いて詩文を教え、夫の遺稿集の編集に力を尽くします。夫は明治維新をみることはできませんでしたが、紅蘭は明治12年まで生き、76歳で亡くなりました。

幕末の激動の時代に、妻は家庭を守り家事を司るという通念を越えて、夫から漢詩、儒学の指導を受け、夫とともに旅をし、文人生活を送るというたぐいまれな人生を送った紅蘭。生涯に400余首の詩を残しました。

曽根を旅立つ星巌と紅蘭の像
星巌34歳、紅蘭19歳。曽根を旅立つ2人の姿。曽根村に戻ったのはあしかけ5年後という長旅であった。
(平成元年10月 大垣市曽根城公園に建立)

参考文献

いずれも岐阜県図書館蔵書