重い、暗い灰色の霧が、濃い夜闇と一緒に、深い雪にとざされた
高山の町をすつかり蔽いつゝんでゐた。
(「山の民」(昭和22年版))

作家解説

江馬修は明治22(1889)年に岐阜県大野郡高山町大字空町(現 高山市吹屋町)に生まれた。斐太中学を中退して上京、働きながら創作をはじめる。当初は自然主義の影響が強かったが、武者小路実篤と出会い、人道主義の影響をうけて書いた最初の長編『受難者』はベストセラーとなった。

その後、関東大震災を体験したことで社会主義に傾倒、プロレタリア文学作家として活動する。昭和7(1932)年、プロレタリア運動弾圧の激化と、『山の民』執筆のために故郷高山へ戻った。高山では『山の民』執筆のための調査と並行して、郷土に関しての調査研究、特に考古学研究に没頭した。さらには郷土研究誌「ひだびと」を発刊し、「赤木清」の名で論文を発表した。

当展示で紹介したフレーズは、昭和22(1947)年に隆文堂から刊行された『山の民』の冒頭部分である。明治維新前後の飛騨を舞台に起こった梅村騒動を描いたこの作品は、「ひだびと」創刊号より連載された。連載終了後に大幅に改稿し、昭和13(1938)年に単行本として刊行。その後も40年余りにわたって何度も改作・改稿を重ねた。冒頭部分だけでも昭和10年、昭和13年、昭和22年刊行のものでそれぞれ異なっている。文献資料だけでは満足せず、飛騨に移り住み、飛騨の古老からの聞き書きをもとに書かれた『山の民』。飛騨の民衆の生活を描いた江馬修は、その後も『山の民』の改稿と並行して、『流人』『本郷村善九郎』などの郷土を舞台とした作品を生み出した。

代表作一覧

1912年 誘惑(下町社)
1914年 蛇つかひ(春陽堂)
1916年 受難者(新潮社)
1938-1940年 山の民 全3巻(飛騨考古土俗学会)
1950年 本郷村善九郎(冬芽書房)
1955年 氷の河(理論社)
1973年 江馬修作品集1〜4(北溟社)

年譜

年齢 生涯に関する事項
明治22年(1889) 12月12日、大野郡高山町大字空町(現 高山市吹屋町)に父弥平、母とみの四男として生まれる。本名修(なかし)。12人兄弟の第9子。生まれるとすぐ母の生家へ養子にやられる。
明治35年(1902) 13歳 1月、生家に戻り江馬家に復籍。この頃、父が事業に失敗し、家運が傾く。4月、斐太中学に入学。
明治36年(1903) 14歳 国木田独歩と樋口一葉の作品に感銘を受け、詩や短歌の投書を始める。
明治39年(1906) 17歳 4月、斐太中学5年に進級。6月、父弥平逝去。修が戸主となる。7月、斐太中学中退、放浪の旅に出る。11月、上京、田山花袋の書生となるが3ヶ月ほどで飛び出す。
明治41年(1908) 19歳 3月、岐阜県大野郡久々野町、久々野小学校の代用教員となる。
明治42年(1909) 20歳 1月、久々野小学校を退職。春上京、長兄の家に母と共に暮らす。短編の習作を始め中村星湖の指導を受ける。12月、徴兵検査。近視のため不合格。
明治44年(1911) 22歳 2月、処女作「酒」を「早稲田文学」に発表。12月、短編「照江」を「早稲田文学」に発表。
明治45年・大正元年(1912) 23歳 2月、短編「赤い月」を「スバル」に発表。この頃「スバル」の編集を手伝う。 10月、短篇集『誘惑』を下町社より刊行。
大正3年 (1914) 25歳 3月、『蛇つかひ』を春陽堂より刊行。11月、中村くめと結婚。
大正4年(1915) 26歳 4月、「武者小路実篤論」を「新潮」に発表し、自然主義と絶縁。11月、同人雑誌「ラ・テール」創刊。
大正5年(1916) 27歳 4月、母とみ逝去。9月、『受難者』を新潮社より刊行。
昭和2年(1927) 38歳 くめと離婚。富田ミサホ(後の三枝子)と再婚。夏、プロレタリア芸術連盟に加入。
昭和3年(1928) 39歳 プロレタリア作家同盟の中央委員となり、機関誌「戦旗」の編集委員になる。5月、「戦旗」創刊。
昭和7年(1932) 43歳 梅村騒動に関する資料と文献の研究に着手する。12月、家族と共に高山に移転。
昭和8年(1933) 44歳 8月、「飛騨考古学会」創立、機関誌「会報」発行。
昭和9年(1934) 45歳 4月、家族とともに東京に移転。「会報」を「石冠」と改名、会を「飛騨考古土俗学会」と改称。東京から論文を送る。秋、家族と共に再び高山に移転。
昭和10年(1935) 46歳 1月、郷土研究誌「ひだびと」創刊。赤木清のペンネームで考古学論文の諸編を「ひだびと」に発表。
昭和13年(1938) 49歳 6月、『山の民』第1部を飛騨考古土俗学会より刊行。昭和14年2月には第2部、昭和15年2月には第3部を刊行。
昭和16年(1941) 52歳 4月、飛騨文化連盟結成、理事長となる。飛騨移動劇場を結成。高山の勤労青年を対象に演劇の指導にあたり、自ら戯曲を書く。
昭和19年(1944) 55歳 5月「ひだびと」用紙配給停止のため通巻118号で廃刊。
昭和20年(1945) 56歳 8月、終戦を飛騨で迎える。9月、「山の民」の改作に着手する。
昭和21年(1946) 57歳 12月、日本共産党に入党、直ちに飛騨地区の委員長に選出される。
昭和25年(1950) 61歳 3月、『本郷村善九郎』を冬芽書房より刊行。11月「人民文学」創刊、以後9か月間編集長をつとめる。12月、上京。
昭和29年(1954) 65歳 3月、「山の民」新協劇団によって上演。大阪・京都・岡山・名古屋を巡って最後に東京青年会館で10日間上演。
昭和30年(1955) 66歳 7月、『氷の河』第1部、8月、同・第2部を理論社より刊行。
昭和41年(1966) 77歳 12月、日本共産党を離党。
昭和44年(1969) 80歳 12月「山の民」最後の改作に取り組む。
昭和47年(1972) 83歳 6月、心臓衰弱と高血圧のため10日間入院。未完の長編「わが不滅の恋人」の執筆に取り組む。
昭和48年(1973) 84歳 3月、江馬修作品集1、2『山の民』(上・下巻)、6月、江馬修作品集3『飛騨百姓騒動記』、10月、江間修作品集4『受難者・他』をそれぞれ北溟社より刊行。
昭和50年(1975) 1月23日、立川の自宅にて逝去。享年85歳1か月。11月、「山の民」の文章碑が高山に建つ。

参考