日本中の人がみんな輪中根性みたいなものだ、
そうなれば、わが郷里こそ日本の中心ではないか、
日本そのものではないか。
(『美濃』)
作家解説
「小説」という文学形式の可能性を問い続けた小説家、小島信夫は、大正4(1915)年、岐阜県稲葉郡加納町(現 岐阜市)に生まれ、県立岐阜中学校(現 岐阜高等学校)卒業後、第一高等学校、東京帝国大学に進み、友人らと文芸活動を開始した。若くして父や兄ら家族を次々に失った経験は『凧』などの作品に結実し、以後、「家族」は小島作品の重要なテーマとなった。また、軍隊で暗号解読の任務についた体験は、『小銃』などの軍隊関連作品を生むとともに、後年の重層的な作風に影響を及ぼしている。
戦後は上京し、英語教師として定年まで教鞭を執りながら小説を発表した。『アメリカン・スクール』で第32回芥川賞を受賞し、その後1年間の渡米を経て、昭和40(1965)年に上梓したのが代表作『抱擁家族』である。戦後日本の家族の変容を鋭くとらえたこの作品は、第1回谷崎潤一郎賞を受賞し、戦後文学の金字塔と高く評価されている。
小島信夫は岐阜を題材にした作品も数多く執筆した。中でも『美濃』では、実在の友人らを本名や変名で登場させ、虚実が錯綜する実験的手法で、郷里の風土や気質を愛情をこめて描いている。『美濃』以降に刊行された『別れる理由』や『寓話』など、前衛的な手法の小説は難解とも評されたが、段取りをせずに書く方法で小説に「現在」を投影し、最後の小説『残光』に至るまで、既存の枠にとらわれない新しい「小説」の可能性を追求し続けた。その作品群は、近年新たな読者層を獲得し、読み継がれている。
代表作一覧
1953年 | 小銃(新潮社) |
1954年 | アメリカン・スクール(みすず書房) |
1965年 | 抱擁家族(講談社) |
1972年・1975年 | 私の作家評伝 Ⅰ〜Ⅲ(新潮社) |
1980-1981年 | 私の作家遍歴 Ⅰ〜Ⅲ(潮出版社) |
1981年 | 美濃(平凡社) |
1982年 | 別れる理由 Ⅰ〜Ⅲ(講談社) |
1987年 | 寓話(福武書店) |
1997年 | うるわしき日々(読売新聞社) |
2002年 | 各務原・名古屋・国立(講談社) |
2006年 | 残光(新潮社) |
年譜
年 | 年齢 | 生涯に関する事項 |
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大正4年(1915) | 2月28日、父捨次郎、母はつ乃の次男として稲葉郡加納町大字東加納(現 岐阜市加納安良町)に生まれる。兄1人、姉4人、弟1人の7人兄弟。 | |
昭和2年(1927) | 12歳 | 3月、白山小学校を卒業。4月、県立岐阜中学校(現県立岐阜高校)に入学。在学中、校友会誌「華陽」に作文が掲載される。 |
昭和7年(1932) | 17歳 | 3月、県立岐阜中学校卒業。大阪の吃音矯正の学校に1カ月入寮。その後昭和9年まで名古屋の兄のもとで浪人生活をする。この頃から本格的に純文学を読み始める。 |
昭和10年(1935) | 20歳 | 4月、第一高等学校文科甲類入学。在学中、文芸部委員になり、「裸木」「凧」などの作品を発表。 |
昭和13年(1938) | 23歳 | 4月、東京帝国大学文学部英文科入学。ゴーゴリや梶井基次郎などを耽読する。緒方キヨと結婚。在学中に、宇佐見英治らと「崖」を創刊(5号で廃刊)。 |
昭和16年(1941) | 26歳 | 3月、東京帝国大学卒業。4月、私立日本中学校に英語教師として就職。5月、徴兵検査を受け第一乙種合格。 |
昭和17年(1942) | 27歳 | 1月、岐阜の中部第四部隊へ入隊。のち、中国にて暗号兵として勤務し、北京で終戦を迎える。 |
昭和21年(1946) | 31歳 | 3月4日、復員。岐阜県庁渉外課に嘱託として勤務。9月、岐阜師範学校に勤務。 |
昭和23年(1948) | 33歳 | 上京し、高等学校に勤務しながら同人誌に短編を発表。5月、宇佐見英治らと「同時代」を創刊。 |
昭和27年(1952) | 37歳 | 12月、雑誌「新潮」に掲載された「小銃」が注目され、文芸雑誌から執筆依頼が来るようになる。 |
昭和28年(1953) | 38歳 | 1月、「小銃」が第28回芥川賞候補となる。「文学界」編集部の発案で新人が集まる「一二会」が結成され参加。島尾敏雄、庄野潤三、吉行淳之介らを知る。12月、初の短編集『小銃』を新潮社より刊行。 |
昭和29年(1954) | 39歳 | 4月、明治大学工学部助教授となり、9月、『アメリカン・スクール』をみすず書房より刊行。以後、大学で英語などを教えながら作家生活を送る。 |
昭和30年(1955) | 40歳 | 1月、「アメリカン・スクール」で第32回芥川賞を受賞。 |
昭和32年(1957) | 42歳 | 4月、ロックフェラー財団の招きで1年間渡米。 |
昭和37年(1962) | 47歳 | 「秀作美術」に加わり、美術家との交流が始まる。4月、国分寺町の新居に移る。5月、妻の乳癌が再発し、翌年11月17日、逝去。 |
昭和39年(1964) | 49歳 | 6月、浅森愛子と再婚。 |
昭和40年(1965) | 50歳 | 9月、『抱擁家族』を講談社より刊行。 |
昭和41年(1966) | 51歳 | 3月、『小島信夫文学論集』を晶文社より刊行。9月、『抱擁家族』で第1回谷崎潤一郎賞受賞。定年退官まで毎年、英米文学の共同研究報告を大学の年報に執筆。 |
昭和46年(1971) | 56歳 | 1月、『小島信夫全集』(全6巻)が講談社より刊行開始。岐阜市民会館で母校の旧制岐阜中学創立百年記念講演「森田草平について」を行う。 |
昭和47年(1972) | 57歳 | 8月、『私の作家評伝Ⅰ』、10月、『私の作家評伝Ⅱ』を新潮社より刊行(Ⅲは75年刊)。11月、「一寸さきは闇」を劇団雲により上演、演出も担当。 |
昭和48年(1973) | 58歳 | 3月、『私の作家評伝Ⅰ・Ⅱ』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 |
昭和52年(1977) | 62歳 | 9月、「ルーツ・前書」を「季刊文体」に連載(79年1月から「美濃」と改題)。 |
昭和56年(1981) | 66歳 | 3月、昭和43年から「群像」に連載した「別れる理由」が150回で完結。5月、『私の作家遍歴Ⅰ~Ⅲ』(潮出版社、1980‐1981年)で第13回日本文学大賞受賞、『美濃』を平凡社より刊行。7月、岐阜県郷土資料研究協議会主催で講演「私と美濃」を行う。 |
昭和57年(1982) | 67歳 | 3月、日本芸術院賞受賞。7月~9月、『別れる理由Ⅰ~Ⅲ』を講談社より刊行。11月、『別れる理由』で第35回野間文芸賞受賞。 |
昭和60年(1985) | 70歳 | 3月、明治大学を定年退官。7月、『小島信夫をめぐる文学の現在』を福武書店より刊行。 |
昭和62年(1987) | 72歳 | 2月、『寓話』を福武書店より刊行。 |
平成6年(1994) | 79歳 | 10月、文化功労者に選出される。翌年4月、岐阜市民栄誉賞受賞。 |
平成10年(1998) | 83歳 | 3月、『うるわしき日々』(読売新聞社、1997年)で第49回読売文学賞受賞。 |
平成11年(1999) | 84歳 | 4月、小島信夫文学賞が創設される。小島の年譜・書誌調査を行っていた詩人の平光善久収集の資料が各務原市に寄託される。10月29日、各務原市で講演「私のふるさと・各務原」を行う。 |
平成14年(2002) | 87歳 | 優れた小説を翻訳し紹介する文化庁の事業で「抱擁家族」が選出される。3月、『各務原・名古屋・国立』を講談社より刊行。 |
平成16年(2004) | 89歳 | 4月、春の叙勲にて旭日重光章受章。 |
平成18年(2006) | 2月、誕生日を記念し保坂和志により『寓話』が個人出版される。5月、『残光』を新潮社より刊行。10月26日、東京都内で逝去。享年91歳。「お別れの会」が、東京と岐阜で行われる。 |
参考
- 柿谷浩一編「小島信夫略年譜」(『小島信夫批評集成8』水声社、2010年 所収)
- 岡田啓編「年譜」(『うるわしき日々』小島信夫著、講談社、2001年 所収)
- 平光善久編「年譜」(『小島信夫全集6』講談社、1971年 所収)
- 小島信夫著「年譜」(『新鋭文学叢書3 小島信夫集』筑摩書房、1961年 所収)