稲葉の山は、こゝから見ても矢張り美しい金字形をして、一際黒く雲際に聳えてゐた。
(『輪廻』)
作家解説
森田草平は明治14(1881)年に岐阜県方県郡鷺山村(現 岐阜市鷺山)に生まれた。10歳で父を亡くし、軍人を志望して14歳で上京、海軍予備校に入学したが中退し、その後もいくつかの学校を転々とした。大学卒業後は英語教師となり、同じ年に閨秀文学講座の講師となる。そこで知り合った聴講生である平塚らいてうと明治41(1908)年、塩原尾花峠で心中未遂を起こす。二人の名を世間に知らしめたいわゆる「煤煙事件」(塩原事件)である。事件後、師である夏目漱石のすすめでこの事件の顛末を描いた作品『煤煙』で一躍有名作家となった。また、外国文学の翻訳に十数年間に渡って取り組み、漱石の死後には『漱石全集』の編集、校正に専念した。昭和になってからは、歴史小説にも着手し、織田信長や明智光秀など郷土にゆかりのある人物を描いている。
当展示で紹介したフレーズは、自伝的な小説である『輪廻』からのものである。従妹との駆け落ちを決心した迪也が、自分の生まれた家の方向にみえる金華山や禿山などの景色を眺めつつ、母に思いを馳せている場面である。
『煤煙』では「小さい時から都へ出たが、いろいろわけがあって、故郷へは帰らない。一生帰りたくない。」と故郷に対して憎しみに近い感情を示す一方で、「矢張此処の土と水とで出来た人間だ」と記している。また、多くの作品に、岐阜の地名や風景、穏やかな方言でのやりとりを描くなど、故郷である岐阜への思いを散りばめている。
代表作一覧
1910-1913年 | 煤煙 全4巻(金葉堂・如山堂・新潮社) |
1911年 | 自叙伝(春陽堂) |
1926年 | 輪廻(新潮社) |
1930年 | 吉良家の人々・四十八人目(改造社) |
1942年 | 夏目漱石(甲鳥書林) |
1948年 | 私の共産主義(新星社) |
1950年 | 細川ガラシヤ夫人(山川書店) |
年譜
年 | 年齢 | 生涯に関する事項 |
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明治14年(1881) | 3月19日、方県郡鷺山村(現 岐阜市鷺山)に父亀松、母とくの長男として生まれる。本名米松。 | |
明治18年(1885) | 4歳 | 土居尋常小学校へ入学するが退学。2年後再入学。 |
明治24年(1891) | 10歳 | 3月、岐阜市高等小学校に入学。5月、父逝去。家督相続をする。10月、濃尾震災に遭う。 |
明治28年(1895) | 14歳 | 4月、上京。攻玉社(海軍予備校)に入学。 |
明治31年(1898) | 17歳 | 攻玉社を中退し、3月、日本中学校5年級に編入学。 |
明治32年(1899) | 18歳 | 3月、日本中学校を卒業。7月、第四高等学校(現 金沢大学)に入学するが、従妹の森田つねとの同棲が発覚し、11月に退学となる。翌年春まで名古屋市を放浪。 |
明治33年(1900) | 19歳 | 5月、再上京。7月、第一高等学校(現 東京大学教養部)の入学試験に合格し、9月に入学手続きを終える。 |
明治34年(1901) | 20歳 | 同級生の生田長江、栗原古城、川下江村らと回覧雑誌「夕づつ」創刊。 |
明治35年(1902) | 21歳 | 与謝野鉄幹・晶子夫婦を知る。雑誌「夕づつ」の題を鉄幹から授けられた「花雲珠(はなうず)」に改題。馬場弧蝶らを知り、大陸文学に興味を持つ。 |
明治36年(1903) | 22歳 | 7月、第一高等学校卒業。9月、東京帝国大学英文科に入学。「仮寝姿」が「文芸倶楽部」の一等に入選。 |
明治38年(1905) | 24歳 | 夏目漱石に師事する。 |
明治39年(1906) | 25歳 | 7月、東京帝国大学英文科卒業。 |
明治40年(1907) | 26歳 | 4月、漱石らの世話で天台宗中学校の英語教師となる。6月、文学講座の講師となる。聴講生の中に平塚らいてうがいた。 |
明治41年(1908) | 27歳 | 3月、平塚らいてうと心中事件を起こすが未遂に終わる。漱石によって庇護される。 |
明治42年(1909) | 28歳 | 漱石の紹介により「煤煙」を朝日新聞元旦号から連載。11月、漱石主宰で朝日新聞に「朝日文芸欄」が設けられ、小宮豊隆とともに編集にあたる。 |
明治43年(1910) | 29歳 | 2月、『煤煙』1巻、8月、同2巻を金葉堂より刊行。 |
明治44年(1911) | 30歳 | 12月、『自叙伝』を春陽堂より刊行。大正4年頃までの間、数々の雑誌に短編小説を発表。 |
大正2年(1913) | 32歳 | 8月、『煤煙』3巻を如山堂書店より刊行。11月、同4巻を新潮社より刊行。5月、『鴨』を新潮社から発行したのを手始めに翻訳家としての存在が認められ、十数年間にわたって翻訳の仕事に打ち込む。 |
大正5年(1916) | 35歳 | 12月、漱石死去。翌年より『漱石全集』の校正、編集を行う。 |
大正9年(1920) | 39歳 | 法政大学英文科教授となり、1934年8月までつとめる。 |
大正12年(1923) | 42歳 | 「輪廻」を「女性」に連載。 |
大正14年(1925) | 44歳 | 3月、国民文庫刊行会に入る。約1万枚以上に及ぶ翻訳ものの原稿を整理する。 |
大正15年・昭和元年(1926) | 45歳 | 1月、『輪廻』を新潮社より刊行。 |
昭和5年(1930) | 49歳 | 4月、『吉良家の人々・四十八人目』を改造社より刊行。 |
昭和7年(1932) | 51歳 | 3月、「道三の死」を「中央公論」に発表。 |
昭和10年(1935) | 54歳 | 3月、「信長の死」を「改造」に発表。7月、「光秀の死と秀吉」を「経済往来」に発表。漱石言行録出版の計画がうまれ、その編者として資料菟集の任にあたる。 |
昭和17年(1942) | 61歳 | 9月、『夏目漱石』を甲鳥書林より刊行。 |
昭和20年(1945) | 64歳 | 5月、空襲で東京の住居焼失。6月、長野県下伊那郡伊賀良村へ疎開、終戦を迎える。 |
昭和23年(1948) | 67歳 | 2月上京。終戦後の随筆をまとめた『私の共産主義』を新星社より刊行。5月、日本共産党に入党。6月より「細川ガラシヤ夫人」の執筆に専念。 |
昭和24年(1949) | 「細川ガラシヤ夫人」を「日本評論」へ連載(未完)。12月14日、長野県下伊那郡会地村の長岳寺で逝去。享年68歳。 | |
昭和25年(1950) | 2月、『細川ガラシヤ夫人』が山川書店より刊行される。 |