あの山の向こうが中津川だよ。
美濃はよい国だねえ。
(『夜明け前』)
作家解説
「木曽路はすべて山の中である」の書き出しで知られる『夜明け前』の作者、島崎藤村は明治5(1872)年、馬籠村(現 岐阜県中津川市馬籠)に生まれた。代表作『夜明け前』は、父をモデルにして描いた長編歴史小説である。木曽街道を主な舞台とするこの物語の作中には、豊かな自然の描写があふれ、藤村のふるさとへの懐古や憧憬の想いがうかがえる。また、史実を徹底的に調査し執筆されていることから、歴史学の分野からも高い評価を受けている。
藤村の作家としてのデビューは詩集『若菜集』である。当時25歳であった藤村は、その頃抱えていた情熱や苦悩を作品に込め、多くの若き読者を感動させた。浪漫派の文学者であった藤村だが、『千曲川のスケッチ』執筆時は「自分をもっと新鮮に、簡素に表現したい」と考えていた。この思いから藤村は詩から散文へと作品を変え、自然主義小説の作家へと転じた。そうして誕生したのが『破戒』である。この作品は、差別問題を主題とする社会小説、あるいは自我の目覚めと告白の悲痛を描いた小説として反響を呼び、多くの「同時代批評」が書かれた。
童話集『ふるさと』は、故郷の我が子に向けた短い物語をつづった作品集である。改版のはしがきには、ふるさとを懐かしむのは「子供の時分に飲んだふるさとのお乳こそ、自分らが生命の源であるから」だと語っている。未来を生きる子どもだけでなく、その周囲に大人たちにも故郷を大切に思う気持ちを持っていてほしいという藤村の願いが込められている。
代表作一覧
1897年 | 若菜集(春陽堂) |
1898年 | 一葉舟(春陽堂) |
1898年 | 夏草(春陽堂) |
1901年 | 落梅集(春陽堂) |
1906年 | 破戒(自費出版) |
1912年 | 千曲川のスケッチ(左久良書房) |
1919年 | 新生(春陽堂) |
1920年 | ふるさと(実業之日本社) |
1932年 | 夜明け前(第1部)(新潮社) |
1935年 | 夜明け前(第2部)(新潮社) |
年譜
年 | 年齢 | 生涯に関する事項 |
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明治5年(1872) | 2月17日(旧暦。新暦では3月25日)、馬籠に生まれ春樹と命名される。 | |
明治11年(1878) | 6歳 | 神坂小学校に入学。父から直筆の「千字文」「勧学篇」などを教えられる。 |
明治14年(1881) | 9歳 | 父に勧められて東京に遊学。京橋槍屋の高瀬薫(長姉 園の嫁ぎ先)に寄寓して、泰明小学校に通学。 |
明治21年(1888) | 16歳 | 6月、芝高輪の台町教会で、キリスト教牧師木村熊二から洗礼を受ける。 |
明治24年(1891) | 19歳 | 9月頃、文学を自己の仕事と思い定め、木村の紹介で岩本善治主宰の「女学雑誌」の編集を手伝う。 |
明治25年(1892) | 20歳 | 9月、明治女学校の英語の教師となる。 |
明治26年(1893) | 21歳 | 1月下旬、教え子の佐藤輔子を愛して苦悶、明治女学校を辞職、キリスト教の籍を脱し関西・東北へ漂泊の旅に出る。 |
明治29年(1896) | 24歳 | 9月、仙台の東北学院へ教師として赴任。 |
明治30年(1897) | 25歳 | 7月、東北学院を辞して東京へ帰る。8月、『若菜集』を春陽堂より刊行。 |
明治31年(1898) | 26歳 | 6月、『一葉舟』、12月『夏草』を春陽堂より刊行。 |
明治32年(1899) | 27歳 | 4月、小諸義塾の教師として信州小諸に赴任。同月、函館の網問屋秦慶治の三女冬子と結婚。 |
明治34年(1901) | 29歳 | 8月、『落梅集』を春陽堂より刊行。 |
明治35年(1902) | 30歳 | 11月、「旧夫人」を「新小説」に、「藁草履」を「明星」に発表。 |
明治38年(1905) | 33歳 | 4月、小諸義塾を辞し、「破戒」の稿を携えて上京。新宿大久保に住む。 |
明治39年(1906) | 34歳 | 3月、『破戒』を緑蔭叢書第一篇として自費出版。 |
明治41年(1908) | 36歳 | 4月、「春」を東京朝日新聞に連載(8月まで)。 |
明治43年(1910) | 38歳 | 1月、「家」上巻を読売新聞に連載(5月まで)。8月、妻冬子、四女柳子産後の出血のため急逝。 |
大正元年(1912) | 40歳 | 12月、『千曲川のスケッチ』を左久良書房より刊行。 |
明治44年(1911) | 39歳 | 1月、「犠牲」(改題した「家」の続編〈下巻〉)を「中央公論」1月号・4月号に分載。11月、『家』の上下2巻を緑蔭叢書第二篇として自費出版。 |
大正2年(1913) | 41歳 | 4月、神戸からフランスの旅に上る。 |
大正4年(1915) | 43歳 | 1月、『平和の巴里』を左久良書房より、12月、『戦争と巴里』を新潮社より刊行。 |
大正5年(1916) | 44歳 | 4月、3年滞在のパリを出発。ロンドンを経て、7月、東京着。 |
大正7年(1918) | 46歳 | 4月、「新生」上巻(第一部)着手。5月、東京朝日新聞に第一部連載開始。7月、『海へ』を実業之日本社より刊行。 |
大正8年(1919) | 47歳 | 1月、『新生』上巻を春陽堂より刊行。4月~10月、「新生」下巻(第二部)を東京朝日新聞に連載。12月、『新生』下巻を春陽堂より刊行。 |
大正9年(1920) | 48歳 | 12月、「ふるさと」を実業之日本社より刊行。 |
大正10年(1921) | 49歳 | 7月、「ある女の生涯」を「新潮」に発表。 |
大正11年(1922) | 50歳 | 『藤村全集』全12巻を藤村全集刊行会より刊行開始。4月、婦人雑誌「処女地」創刊(10号で終刊)。 |
昭和3年(1928) | 56歳 | 11月、加藤静子と再婚。馬籠を訪れ、「夜明け前」の準備にかかる。 |
昭和4年(1929) | 57歳 | 4月、「夜明け前」第一部序の章を「中央公論」に発表。 |
昭和7年(1932) | 60歳 | 1月、『夜明け前』第一部を新潮社より刊行。 |
昭和10年(1935) | 63歳 | 11月、『夜明け前』第二部を新潮社より刊行。日本ペンクラブ会長に就任。 |
昭和11年(1936) | 64歳 | 7月、第14回国際ペンクラブ大会のため静子夫人同伴でアルゼンチンを訪問。マルセイユのロンシャン美術館でシャバンヌ作の壁画「東方の門」を見る。 |
昭和18年(1943) | 1月、「中央公論」に「東方の門」の連載を始める(第三章まで)。8月22日、神奈川県大磯の自宅で逝去。享年71歳。 |