汽車の窓のぼくは、少年時分の大方忘れかけた
故郷の冬げしきに、亦出会う感じで
(「積雪」(『積雪』、『父』所収))

作家解説

瀧井孝作は明治27(1894)年に岐阜県高山町馬場通(現 高山市大門町)で生まれた。祖父は大工の棟梁、父は大工から指物師となって名工と呼ばれた、飛騨の匠の家系である。

12歳で母を亡くした瀧井は、奉公先で俳句と出会った。「折柴」という排号はこの頃からのものである。15歳の頃、高山を来訪した俳人 河東碧梧桐に句を認められ、師事する。18歳で故郷を離れ、大阪に出て働きつつ雑誌に俳句や散文を発表した。上京後は、雑誌の編集や新聞記者として働いた。芥川龍之介や志賀直哉との出会いもあり、大正10(1921)年からは創作に専念する。この頃、最初の妻を結婚からわずか2年で病気によって亡くし、この経験を記したものが代表作『無限抱擁』である。

瀧井には家族を題材とした作品がいくつかあり、特に父親について書いた作品が多い。短編集『父』には、処女作「父」の他に父親にまつわる7編の短編が収められ、血の気の多い父との確執・葛藤の日々が描かれている。その中で、父の死を描いた「積雪」のフレーズを当展示で紹介した。

18歳で高山を出奔し、その後故郷で暮らすことはなかった瀧井だが、友だちや妻と故郷である高山やその近辺、乗鞍岳などを訪れ、馬瀬川で釣りも楽しんだ。昭和46(1971)年には、77歳で高山市の名誉市民となった。故郷への強い思いは本人の作品のみならず、次女である小町谷新子氏のエッセイでも描かれている。

代表作一覧

1922年 妹の問題(玄洞社)
1923年 良人の貞操(新潮社)
1927年 無限抱擁(改造社)
1931年 折柴句集(やぽんな書房)
1935年 折柴随筆(野田書店)
1938年 積雪(改造社)
1941年 父(高山書院)
1950年 郷愁(中央公論社)
1968年 野趣(大和書房)
1973年 俳人仲間(新潮社)

年譜

年齢 生涯に関する事項
明治27年(1894) 4月4日、大野郡高山町馬場通(現 高山市大門町)に父新三郎、母ゆきの次男として生まれる。
明治33年(1900) 6歳 高山町尋常小学校入学。
明治39年(1906) 12歳 5月、母逝去。9月、奉公に出され、高山町の川上魚問屋の店員となる。
明治41年(1908) 14歳 祖父、弟が相次いで逝去。前年には兄も逝去している。奉公先の隣家で友人の柚原畦菫に俳句を学ぶ。「折柴」という俳号で句作を始める。
明治42年(1909) 15歳 7月、高山を訪れていた河東碧梧桐と出会い、歓迎句会で句を認められる。
明治45年・大正元年(1912) 18歳 2月、祖母逝去。再び高山を訪れた碧梧桐と再会し、進路について相談する。6月、高山を深夜出奔、大阪へ出る。大阪の俳誌「紙衣」創刊。編集の一員となる。
大正2年(1913) 19歳 4月、「層雲」に投稿した「息」が主宰者の荻原井泉水に認められ、文章にも自信を持つようになる。
大正3年(1914) 20歳 3月、高山の福田夕咲らと俳誌「ツチグモ」を創刊。5月、徴兵検査で高山に帰省。9月、上京。
大正8年(1919) 25歳 3月、時事新報社文芸部記者となる。12月、榎本りんと結婚。
大正9年(1920) 26歳 1月、時事新報社を退社。2月、「改造」の記者となり、志賀直哉を訪問。以降、終生に渡り兄事する。8月、「祖父」を「新潮」に書き、小説で立つ決意をする。
大正10年(1921) 27歳 3月、「改造」の記者を辞め、創作に専念。
大正11年(1922) 28歳 2月、妻りん逝去。10月、第一創作集『妹の問題』を玄洞社より刊行。
大正12年(1923) 29歳 7月、『良人の貞操』を新潮社より刊行。9月、志賀直哉夫妻の媒酌で篠崎リンと再婚。
昭和2年 (1927) 33歳 9月、『無限抱擁』を改造社より刊行。
昭和6年 (1931) 37歳 8月、『折柴句集』をやぽんな書房より刊行。
昭和7年 (1932) 38歳 6月、相模川で初めて鮎釣りを知り、生涯の趣味とする。
昭和10年(1935) 41歳 芥川賞が創設され、選考委員を昭和57(1982)年までつとめた。9月、『折柴随筆』を野田書房より刊行。
昭和11年(1936) 42歳 3月、父逝去。
昭和12年(1937) 43歳 2月、河東碧梧桐逝去。
昭和13年(1938) 44歳 9月、内閣情報局の要請で中国戦線の武漢作戦に従軍。12月、『積雪』を改造社より刊行。
昭和16年(1941) 47歳 5月、『父』を高山書院より刊行。
昭和25年(1950) 56歳 5月、『郷愁』を中央公論社より刊行。
昭和31年(1956) 62歳 7月、中日新聞社の招待で飛騨の馬瀬川の鮎解禁に行く。この年から毎年馬瀬川へ赴く。
昭和34年(1959) 65歳 12月、日本芸術院会員となる。
昭和43年(1968) 74歳 8月に『野趣』を大和書房より刊行。『野趣』はこの年度の読売文学賞を受賞。
昭和44年(1969) 75歳 勲三等瑞宝章受章。
昭和46年(1971) 77歳 11月、高山市名誉市民となる。
昭和48年(1973) 79歳 10月、『俳人仲間』を新潮社より刊行。
昭和49年(1974) 80歳 『俳人仲間』が日本文学大賞を受賞。11月、文化功労者に選出。高山市の飛騨の里に文章碑が建つ。
昭和50年(1975) 81歳 4月、勲二等瑞宝章に昇叙。八王子市名誉市民となる。秋に八王子市主催の瀧井孝作展が市内の大丸百貨店で開催。
昭和56年(1981) 87歳 11月、入院。12月、妻リン逝去。
昭和59年(1984) 11月21日、逝去。享年90歳。

参考