私の胸に少年時代の夢をかきたてるのは、長良川の水だけである。
(「廃園と和解と」(『心臓告知』所収))
作家解説
豊田穣は、大正9(1920)年に中国東北部(旧満州)で生まれた。昭和5(1930)年、岐阜県本巣郡本田村(現 瑞穂市)に帰り、岐阜県本巣中学校(現 本巣松陽高校)を卒業。『長良川』ほか彼の作品には、子供時代を過ごした墨俣や穂積の風景が描かれている。
昭和12(1937)年に海軍兵学校入学。海軍兵学校を卒業すると、遠洋航海で日本の軍港などを回り、昭和17(1942)年に大分県宇佐航空隊所属となる。昭和18(1943)年、ソロモン方面イ号作戦で乗機を撃墜され、米軍の捕虜となった。昭和21(1946)年、穂積に帰り、名古屋の中日新聞社に入社。新聞記者のかたわら小説の勉強をはじめる。昭和22(1947)年、「ニューカレドニア」が雑誌「新潮」に掲載され、小説家デビューをはたす。
豊田穣の主な作品の発表の場は、作家・小谷剛が主宰する同人雑誌「作家」であった。昭和45(1970)年には、「作家」に発表した6つの短編を『長良川』として出版。妻を亡くし、息子たちを故郷に預け、新聞記者としての日常生活を送る主人公を戦時中の回想を交えながら綴っている。同作品は昭和46(1971)年の第64回直木賞を受賞。昭和51(1976)年に中日新聞社を退職すると、専業作家として活動。ライフワークとなる『昭和交響楽』三部作(『日本交響楽』『人間交響楽』『平和交響楽』)を相次いで出版。岐阜県図書館は、平成7年にご遺族より豊田穣作品等の寄贈を受け、「豊田穣文庫」を開設した。
代表作一覧
1956年 | 海なる墓標(虎書房) |
1970年 | 長良川(作家社) |
1972年 | 海兵四号生徒(文藝春秋) |
1973年 | ミッドウェー戦記(文藝春秋) |
1973年 | 江田島教育(新人物往来社) |
1973年 | 寂光の人(文藝春秋) |
1974年 | 海の紋章(新潮社) |
1978年 | 蒼空の器(光人社) |
1979年 | 松岡洋右 悲劇の外交官(新潮社) |
1992年 | 心臓告知(講談社) |
年譜
年 | 年齢 | 生涯に関する事項 |
---|---|---|
大正9年(1920) | 中国東北部(旧満州)で出生。 | |
昭和5年(1930) | 10歳 | 本巣郡本田村(現 瑞穂市)の郷里に帰る。 |
昭和12年(1937) | 17歳 | 本巣中学校(現 本巣松陽高校)を卒業。海軍兵学校入校。 |
昭和15年(1940) | 20歳 | 海軍兵学校卒業。(68期生) |
昭和18年(1943) | 23歳 | イ号作戦(ソロモン海域)で乗機を撃墜され、米軍の捕虜となる。 |
昭和21年(1946) | 26歳 | 帰国。郷里の穂積に帰る。中日新聞社に入社。 |
昭和22年(1947) | 27歳 | 「ニューカレドニア」を雑誌「新潮」に発表。小説家デビュー。 |
昭和23年(1948) | 28歳 | 12月、『ニューカレドニア』を第一書店より刊行。 |
昭和24年(1949) | 29歳 | 「帰還」で第1回横光利一賞次席。同人誌「作家」の同人となる。 |
昭和26年(1951) | 31歳 | 「ミッドウェー海戦」で第1回岐阜県文化賞受賞。2月、『ミッドウェー海戦』を文藝春秋より刊行。 |
昭和31年(1956) | 36歳 | 11月、『ミッドウェー海戦』を改題し『海なる墓標』を虎書房より刊行。 |
昭和34年(1959) | 39歳 | 「荒野の人」が「文學会」新人賞・優秀作として掲載。 |
昭和42年(1967) | 47歳 | 1月、「伊吹山」が第56回芥川賞候補となる。 |
昭和43年(1968) | 48歳 | 1月、「あるスパルタの敗北」が第58回直木賞候補となる。 |
昭和44年(1969) | 49歳 | 1月、「空港へ」が第60回直木賞候補となる。 |
昭和45年(1970) | 50歳 | 6月、『長良川』を作家社より刊行。第10回岐阜県読書大会にて「文学と人生」と題して講演。 |
昭和46年(1971) | 51歳 | 1月、『長良川』で第64回直木賞受賞。11月、『続 長良川』を文藝春秋より刊行。 |
昭和47年(1972) | 52歳 | 3月、『海兵四号生徒』を文藝春秋より刊行。 |
昭和48年(1973) | 53歳 | 1月、『ミッドウェー戦記』を文藝春秋より刊行。7月、『江田島教育』を新人物住来社より刊行。8月、『寂光の人』を文藝春秋より刊行。 |
昭和49年(1974) | 54歳 | 8月、『海の紋章』を新潮社より刊行。 |
昭和51年(1976) | 56歳 | 中日新聞社を定年退職。以後、作家活動に専念。 |
昭和53年(1978) | 58歳 | 12月、『蒼空の器』を光人社より刊行。 |
昭和54年(1979) | 59歳 | 6月、『松岡洋右 悲劇の外交官』を新潮社より刊行。 |
昭和61年(1986) | 66歳 | 秋の褒章で紫綬褒章受章。 |
平成3年(1991) | 71歳 | 「季刊作家」の編集主幹となる。 |
平成4年(1992) | 72歳 | 第45回中日文化賞受賞。8月、『心臓告知』を講談社より刊行。 |
平成6年(1994) | 1月30日、逝去。享年73歳。3月、遺作『北洋の開拓者』を講談社より刊行。 | |
平成7年(1995) | 岐阜県図書館に「豊田穣文庫」開設。 |