この木の実 ふりにし事し しのはれて 山椿はな いとなつかしも
(祐泉寺の歌碑)
作家解説
安政6(1859)年、美濃国加茂郡太田村(現 美濃加茂市)に生まれた坪内逍遙は、英語学校時代、教師による『ハムレット』の朗読を通してシェイクスピアに出会い、「現代社会にも通じる不変の心理」を表す作品の数々に強く心を打たれた。この経験は代表作となる翻訳『沙翁全集』執筆のきっかけとなった。シェイクスピアと近松門左衛門との共通点を探るなど多方面から研究をすすめ、ついには全作品の個人翻訳を成し遂げ、他にも演劇研究所を設立するなど、生涯をかけて演劇の発展に力を注いだ。
一方で、文学を芸術として確立させることも逍遙にとっての目標であった。人間を善玉悪玉的な類型に当てはめる江戸戯作の勧善懲悪に反対し、自身の文学理論をまとめたのが『小説神髄』である。彼はこの作品を通して、文学を体系づけるとともに、小説に必要なのは人情であるとして、人間を描くときには「只傍観してありのまゝを模写する心得」でなければならないと述べた。この『小説神髄』における逍遙の所論は、日本で最初のまとまった写実主義の主張であり、発表以降、二葉亭四迷など多くの作家たちに影響を与えた。
10人兄弟の末子であった逍遙は、兄たちから読み書きや文学について教わった。幼い頃次兄の義衛と「木の実ふりっこ」遊びをして楽しんだことや、芸術に関心の高い母の影響により歌舞伎などに親しんだことは、その後の演劇研究や戯曲などの執筆活動に結びつく貴重な体験であったといえる。
代表作一覧
1884年 | 自由太刀余波鋭鋒(東洋館) |
1885-1886年 | 一読三歎当世書生気質(全17冊)(晩青堂) |
1885-1886年 | 小説神髄(全9冊)(松月堂) |
1896年 | 桐一葉(春陽堂) |
1900年 | 国語読本(尋常小学校用8冊・高等小学校用8冊)(冨山房) |
1904年 | 新曲浦島(早稲田大学出版部) |
1909-1928年 | 沙翁傑作集(のち沙翁全集)(全40巻)(早稲田大学出版部・冨山房) |
1933年 | 柿の蔕(中央公論社) |
1933-1935年 | 新修シェークスピヤ全集(全40巻)(中央公論社) |
年譜
年 | 年齢 | 生涯に関する事項 |
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安政6年(1859) | 5月、美濃国加茂郡太田村(当時尾張藩代官所)に生まれる。幼名勇蔵。 | |
元治元年(1864) | 5歳 | この頃から、母に草双紙を読んでもらったり、次兄と椿の実で「木の実ふり」などをして遊ぶ。 |
慶応3年(1867) | 8歳 | 太田陣屋内の道場へ撃剣の稽古に通う。絵入りの百人一首や諸種の草双紙類に親しむ。 |
明治2年(1869) | 10歳 | 一家を挙げて名古屋西郊外上笹島村(現 中村区)に移住する。 |
明治3年(1870) | 11歳 | 7月から城下に残存の寺子屋に入る。母に連れられて歌舞伎見物に通う。 |
明治5年(1872) | 13歳 | 8月、長男の勧めで、次兄義衛と名古屋藩から受け継がれた愛知県洋学校に入学して英語を学ぶ。 |
明治7年(1874) | 15歳 | 9月、新設された官立愛知外国語学校(のち愛知英語学校と改称)に入学。 |
明治8年(1875) | 16歳 | 愛知英語学校において、教師の米人レーザムやマクレランによるシェイクスピアの講義を聴く。 |
明治9年(1876) | 17歳 | 8月、愛知県の選抜生となり、9月、東京開成学校入学。同期生は高田早苗、市島謙吉など。 |
明治11年(1878) | 19歳 | 9月、本科(文学部史学哲学および政治学科)に進む。高田早苗らの感化で西洋小説を濫読。 |
明治13年(1880) | 21歳 | 4月に翻訳『春風情話』を橘顕三の名義で刊行。 |
明治14年(1881) | 22歳 | 生活の資を得るため、8月以降神田猿楽町の下宿や本郷の進文学舎で英語を教える。 |
明治16年(1883) | 24歳 | 東京大学卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となり、外国歴史、憲法論などを担当。 |
明治17年(1884) | 25歳 | 5月、文学士坪内雄蔵の名でシェイクスピアの翻訳『自由太刀余波鋭鋒』を東洋館より刊行。序文に逍遙遊人の号を用いる。 |
明治18年(1885) | 26歳 | 6月、『一読三歎当世書生気質』(全17冊)を晩青堂より刊行。9月、『小説神髄』(全9冊)を松月堂より刊行。 |
明治19年(1886) | 27歳 | 6月、『諷誠京わらんべ』を日野商店より刊行。7月、鵜飼常親の養女センと結婚。 |
明治22年(1889) | 30歳 | 東京専門学校にて西洋史、英米詩文集等を講義。1月、「細君」を国民之友第37号に発表。 |
明治24年(1891) | 32歳 | 雑誌「早稲田文学」を創刊。年末より森鷗外との間に没理想論争起る。 |
明治29年(1896) | 37歳 | 2月、『桐一葉』を春陽堂より刊行。 |
明治33年(1900) | 41歳 | 9・10月、『国語読本』(尋常小・高等小学校用各8巻)を冨山房より刊行。11月、『近松之研究』(綱島梁川と共編)を春陽堂より刊行。 |
明治36年(1903) | 44歳 | 勇蔵の名を雄蔵へ正式に書き改める。 |
明治37年(1904) | 45歳 | 11月『新楽劇論』と『新曲浦島』を早稲田大学出版部より刊行。 |
明治42年(1909) | 50歳 | 9月、演劇研究所を開所する。研究生は22名。12月『ハムレット』(沙翁傑作集 第一編)を早稲田大学出版部より刊行。 |
大正4年(1915) | 56歳 | 8月、早稲田大学教授辞任。 |
大正9年(1920) | 61歳 | 5月、熱海・双柿舎の完成(落成)。12月、『少年時に観た歌舞伎の追憶』を日本演芸合資会社出版部より刊行。 |
大正11年(1922) | 63歳 | 「山椿の歌」及び「山近水長」二首を色紙に書いて祐泉寺に贈る。 |
大正13年(1924) | 65歳 | 大隈会館にて児童劇、ページェント(野外劇)上演。 |
昭和元年(1926) | 67歳 | 『逍遙選集』第1回配本始まる。 |
昭和3年(1928) | 69歳 | 10月、演劇博物館開館(早稲田大学構内)。12月、『シェークスピヤ研究栞』(沙翁全集 第四十編)を早稲田大学出版部より刊行。 |
昭和8年(1933) | 74歳 | 7月、『柿の蔕』を中央公論社より刊行。『新修シェークスピヤ全集』第1回配本始まる。 |
昭和10年(1935) | 演出助手などを務めた河竹繁俊らを招き、「研究栞」のことを託す。2月28日、逝去。享年75歳。 |