4 フランスファッション誌コレクション

(1)プチ・クリエ・デ・ダーム誌図版集
    (Petit Courrier des Dames)


 1821年に創刊されたフランスのモード誌『Petit Courrier des Dames』に掲載された色鮮やかなモード画を全6巻に集めた図版集(1821-1833年刊行分)です。
 誌名は"貴婦人通信"という意味です。

 『プチ・クリエ・デ・ダーム』が創刊された時代は、貴族階級が没落し、かわって中産階級が政治・経済の分野に台頭してきた時代でした。
 購買意欲のある裕福な中産階級は、半月に1度、1週間に1度という当時にしては考えられない頻度でパリの最新流行を伝える『プチ・クリエ・デ・ダーム』を手にし、地方にあってもファッション情報を手にすることができました。

 当時のファッション誌の中でも当誌が画期的であったのは、華麗なファッションに身をつつんだモデルの正面図にさらに背面図をも加え、同一の画面上に描いたという点につきます。
 これらのモード画に頼るしかなかった地方の仕立て屋(クチュリエ)は、この背面図のおかげで、服を仕立てることができました。この画期的な手法は、以後他のモード誌も習うようになりました。

 『プチ・クリエ・デ・ダーム』が創刊された1820年頃は、たった数年で流行ががらりと変化した時期にあたります。
 フランス革命直後は、ギリシャ風のゆったりとしたドレスが流行していましたが、1820年頃、ナポレオン体制の弱体化に乗じて旧貴族が復活すると、再び貴族趣味的でロマンティックなドレスが流行しはじめます。
 『プチ・クリエ・デ・ダーム』は、こうした世相の変化を敏感に読み取り、華麗な「ロマン主義」の衣装デザインを考案しています。ふわりと広がるスカート、花や羽で飾り立てられた華麗な帽子、又極端に装飾された滑稽な髪型など、一枚一枚の図版はどの部分をみても興味深いものとなっています。

 ※当館サイトにてご覧いただけます。



(2)ガゼット・デュ・ボントン
    (Gazette du Bon Ton art-modes et frivolites)


 「20世紀最大のモード誌」と称される『ガゼット・デュ・ボントン』(1912-1925年)は、アール・ヌーボー(1900年様式)とアール・デコ(1925年様式)がフランスで一気に花開いた時代、26才の編集者リュシァン・ボージェルによって創刊されました。
 誌名は、"上品で美しい雑誌−芸術と流行と婦人装身具−"という意味です。きわめてまれな完全揃いで、全70号が14冊に製本されています。

 『ガゼット・デュ・ボントン』が今日、単なるモード誌を超えた芸術作品として評価されるのは、まずファッション史上に革命を起こしたとされる衣装デザイナー、ポール・ポワレ(Paul Poiret 1879-1944)の功績が大きいといえます。
 ポワレは当時、モード界の「サルタン」と呼ばれるほど大きな影響力をもつデザイナーでした。コルセットを排除したゆったりとしたギリシャ、東洋風の直線的ドレスを創作し、アール・デコ期の服飾界に「ポワレ様式」という言葉を残しています。

 前世紀までのファッション画は『プチ・クリエ・デ・ダーム』のように服の仕立のための図版としての役割を担っていました。しかし、ポワレは自作の衣装を描くイラストレーターに対して、服の細かい部分を描くのではなく、服から受けた「印象」を表現するよう要求しました。
 そのため『ガゼット・デュ・ボントン』の多くのモード画は、文学的な表題を与えられ、劇場の一場面を描いたかのような趣のある画となっています。一枚一枚の画は当時を席巻していたロートレック風のダイナミックなものや、ドガ、モジリアーニを思わせるもの、キュービズムや未来派の作品もあります。
 同じポワレの衣装でも、画家により異なった印象で描かれているのは大変興味深いものあがります。

 さらに、これらのモード画は「ポショワール」と呼ばれる手彩色版画によって印刷され、芸術性をより一層高めました。
写真技術が開発された当時、モード誌は写真版のモノクロが主流となっていました。しかし『ガゼット・デュ・ボントン』はあえて一枚一枚に職人が色付けする「手作り」にこだわりました。その豊かな色彩は、「ポショワール」なくして表現できませんでした。

 当誌はアール・デコが頂点を極めた1925年に終刊しますが、イラストレーターたちは活躍の場をアメリカの高級ファッション誌『ヴォーグ』(1909年に創刊。現在も刊行中の世界で最も著名なファッション雑誌)などに移し、ファッション後進国アメリカにパリの文化を伝えました。

 ※当館サイトにてご覧いただけます。