名前よみ

ただ じゅんえい

生没年

1861年-1923年(文久元年-大正12年)

解説

昭和22(1947)年12月、児童福祉法が制定され、同26(1951)年5月5日(こどもの日)には児童憲章が制定されました。「こどもの日」は子どもの健やかな成長と幸福を祝う日として定着しています。
多田順映はそれより半世紀以上も前に、世間の偏見や無理解にも屈せず、私財をなげうって独力で児童福祉事業と取り組みました。その生涯を振り返るとその先駆的業績は実に大きいといえます。

多感な少年時代

多田順映は文久元(1861)年4月、大野郡島村(現、揖斐郡揖斐川町島)の受念寺第21代住職、多田順諦(ただ じゅんたい)の一人っ子として生まれました。
受念寺は浄土真宗本願寺派に属し、寺格も高い由緒ある寺で檀家は二百数十戸にも及び、順映は「坊ちゃん」と呼ばれ大切に育てられていました。
元治元(1864)年、わずか3歳で父と死別。母は自ら寺を守り順映を育てあげる決心をしましたが、檀家の人々から熱望されてやむなく翌年再婚。飛騨から後住として新しい父行映を迎えました。
慶応3(1867)年、6歳の時に今度は母が病死し、大垣から新しい母を迎えました。幼くして両親を失った順映に対し、義父母をはじめとして村の大人や子どもまでもが以前にも増して温かく見守ってくれました。利発な順映は勉強にも遊びにも全体の中心となって元気に振る舞っていましたが、ぽっかりと胸に空いた大きな穴は埋めようがありませんでした。
こうした自らの生い立ちが後の育児院設立の夢へとつながっていきました。

児童福祉の先駆者として

僧として京都での厳しい修行を終え、明治14(1881)年、20歳の時に結婚。本巣郡十九条(現、瑞穂市)より妻松子を迎えました。一男三女(次女は幼死)にも恵まれ、青年住職として活躍。義父母はこのころ隠居し大垣の別宅に移りました。順映は子どもたちに「大きくなったら兄弟仲良く力を合わせ、人の涙の一滴でもふいてあげる人になっておくれ」と繰り返し言い聞かせました。
この頃勃発した、日清・日露戦争は人々の生活にも大きな影響を与えました。 日清戦争後、戦争で身寄りをなくした孤児たちが町を徘徊するのを見るにつけ、永年順映が心の奥底で温めてきた孤児救済への思いが次第にふつふつと湧き上がってきました。
明治33(1900)年7月、39歳の時に家の反対を押し切って3人兄弟の孤児を引き取り養育を始めました。たちまち孤児の数は男8人女4人の12人に増えました。
同年8月、県から「仏教育児院設立の許可」がありました。費用の大半を寄付金や私費で賄い、本当の家族同様、献身的な愛情を注いで育てました。収容児数が60余名に達した頃もあり、順映の子どもたちも食事の世話など両親を見習いよく助けました。  
明治39(1906)年、財団法人に認可され村名をとって「清水(きよみず)育児院」と名称を変えました。(清水村は明治22年に当時の清水・長良・福島・島4か村が合併して成立)
当初院生は地域の小学校に通っていましたが、小学校でのいじめ等もあり、併設して「私立倶楽(くら)尋常小学校」を開設しました。ところが院内に非行者がでてきたためこの風潮を断ち切るために「感化部」設立の認可を受け施設を新設しました。この施設は明治42(1909)年3月「岐阜県代用感化院」の指定を受け、4月清水育児院豊富学院として発足しました。感化教育を家族主義、仏教主義にもとづいて行ない、勤労を尊重し独立自活して更正をはかろうとするものでした。

順映の志は永遠に続く

大正10(1921)年3月、順映60歳の時に永年の児童功労を讃えられ藍綬褒章を受賞。大正12(1923)年7月19日、病のため妻と3人の子ども夫婦と多くの孫たちに見守られながら62歳の生涯を終えました。
子どもたちは父母の苦労と孤児救済事業を間近に見ながら育ち、受念寺第24代住職は長男深晃(ふかみつ)が、清水育児院は長女操(みさお)とその夫河瀬治定(こうぜ じじょう)が、豊富学院は三女美津とその婿養子多田得了(ただ とくりょう)がそれぞれ継ぎました。
清水育児院は社会福祉法人の児童福祉施設や障害者福祉施設となり、また豊富学院はその後法改正により県へ移管され名称を「岐阜学院」、昭和57年4月からは「県立わかあゆ学園」と改称されています。
多田順映の尊い志は現在も脈々と続いています。
 

参考文献

  • 「多田順映 孤児をそだてて」吉岡勲(『岐阜史学』第54号、1968年)
  • 「多田順映 児童福祉の先駆者」杉原明雄(『美濃の文化』第30号、1986年)
  • 「清水育児院を支えた寄付金募集活動」早野博之(『郷土研究・岐阜』第80号、1998年)
  • 「私立倶楽陣尋常小学校の成立とその消長 清水育児院内小学校の歩みについて」藤村文雄(『岐阜県教育史研究』第2号、1995年)

いずれも岐阜県図書館蔵書