概要

開催期間

平成17年7月30日(土曜日)から平成17年8月25日(木曜日)

開催場所

岐阜県図書館 2階 世界分布図センター展示コーナー(入場無料)

配布資料

県図書館の今と昔 チラシ
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展示資料リスト(PDF:89KB)

はじめに

 新図書館開館10周年を記念して、「第12回 郷土資料展 県図書館の今と昔~旧館時代のなつかしの品々~」を企画しました。明治末に教育関係者によって創設された「岐阜県教育会附属図書館」を前身とする図書館の長い歴史を、その時々に収集した資料とともにたどりながら、振り返っていただければ幸いです。

当館は、昭和9年に「岐阜県立岐阜図書館」として第一歩を踏み出しました。太平洋戦争では戦火で蔵書の大部分を失うという悲しい出来事もありましたが、収集は休むことなく続けられました。
 GHQから贈られたアメリカの出版物、明治期の県庁所蔵図書、いくつかのユニークな個人コレクション、新図書館開館後に収集した19世紀ファッション雑誌など、貴重な資料群がその後さらに加わりました。これらの資料の中から、各コレクションのエッセンスとも言える資料を選んで展示いたします。
 また、岐阜公園にあった旧図書館の、館内を飾た絵画や書、また、カウンターまわりの品々、市町村巡回に使われた柳行李など、懐かしい品々も同時に展示します。

展示写真1
展示写真2

1904年(明治37年)から1934年(昭和9年)

「岐阜県教育会附属図書館」旧蔵資料

 明治の中頃、地方における教育の向上をめざし、教育に関する研究を行ったり、行政からの諮問に答える団体として「地方教育会」が組織されました。
 それらは、道府県・郡・市区町村単位で設置され、教育関係者や有識者、地方議員がその構成員でした。

 岐阜県教育会は、郡・市教育会からなり、県の補助金を得て教育の普及向上のため様々な事業を行いました。その事業の一つが図書館の運営で、郡市教育会や会員個人に対する貸出のほか、一般公衆(12歳以上)への館内無料閲覧サービスや、地方公衆のための回覧文庫・巡回文庫サービスも行っていました。

 この県教育会附属図書館は閲覧室を持たない「貸付図書館」として出発しましたが、大正15年、現在の岐阜市美江寺の地に「岐阜県教育会図書館兼会館」が開館し独立館舎となりました。この建物は現在も同地(旧岐阜大学附属病院南隣)に残っています。

 この図書館の蔵書がやがて、昭和9年に創設される初の県立図書館、「岐阜県立岐阜図書館」の蔵書の核となります。蔵書の内容については、岐阜県教育会が発行した「岐阜県教育会雑誌」に掲載された蔵書目録によってうかがい知ることができます。一般資料に関しては、幅広い分野にわたる古今の学術書、教養書、教育関係図書が備えられており、郷土資料については人文地理を中心に基本的な文献が収集されていました。特に、『新撰美濃志』の刊行で知られる郷土の歴史家・神谷簡斎から当時寄贈された、「簡斎文庫」には関ヶ原合戦関係の和書(写本)等貴重な資料も多く、「簡斎」の朱印のある資料を、現在も見つけることができます。

岐阜県教育会雑誌

岐阜県教育会附属図書館写真
展示写真3

1934年(昭和9年)から1957年(昭和32年)

1 「岐阜県立岐阜図書館」旧蔵資料

 昭和6年、東京で開かれた全国道府県立図書館長会議の場で、中央図書館長協議会が設立された時、岐阜県にはまだ県立図書館がありませんでした。
 これをきっかけに県内では中央図書館の役割をになう県立図書館の建設を求める動きが大いに高まりましたが、県の財政事情はきびしく、県教育会附属図書館が県に移管され、それが核となることによってやっと、昭和9年、県立図書館が誕生することとなりました。当初「岐阜県立岐阜図書館」は、旧教育会附属図書館を臨時館舎としましたが、昭和12年、岐阜市司町にあった岐阜県物産館を改装して新館舎に移りました。新館舎の開館式には文部大臣や帝国図書館長等も列席しました。

 県立岐阜図書館は、国から中央図書館の指定を受けるため、蔵書目録の作成や郷土資料の収集など必要要件の達成に努めました。教育会附属図書館時代に収集された郷土資料に加え、この県立岐阜図書館時代に収集された新たな資料群は現在も、岐阜県の近現代史研究の貴重な宝となっています。
 県立岐阜図書館の蔵書は昭和20年の岐阜空襲で大半が焼失しましたが、郷土資料は寺院などに疎開してあったため戦災をまぬがれました。県立岐阜図書館が作成した『図書目録』の「郷土資料」の項を見ますと、一冊一冊の尊さがじわじわと伝わってきます。

 県立岐阜図書館時代、県内外の公共図書館や私設文庫、県内の役所、学校、神社、仏閣、個人等が所蔵する、岐阜県関係の郷土資料の総合目録『濃飛郷土志料目録』が、県立図書館内に事務局を置く「岐阜県郷土文化史調査会」によって昭和17年刊行されました。図書のほか古文書も掲載されており、郷土研究の参考資料として今も貴重な存在となっています。

岐阜県立岐阜図書館写真
展示写真4

2 「県立図書館・支考文庫」の美濃派俳書

 岐阜県立岐阜図書館時代の昭和14年、各務支考(1665年から1731年)を始祖とする美濃派俳諧(獅子門)の道統家(派の代々の主宰者)から、獅子門関係俳書、59種(129冊)の寄贈があり、「支考文庫」と名付けられました。今日も続く美濃派が、近年刊行した合同句集『黄山』に、その時、県立岐阜図書館が贈った感謝状の文面と、寄贈された資料の書目が掲載されており、「いたずらに死蔵することなく、篤学の者に閲覧の機会を広く与えるため」寄贈したと補記されています。

 芭蕉の高弟の一人だった支考は、芭蕉の作風をまとめた『葛の松原』や『俳諧十論』など多くの俳論書を著し、芭蕉の俳諧を全国に広めました。出身地美濃では「美濃風」と呼ばれる独特の俳諧文化が育ち、平易で庶民的な中に風刺の効いた作風が愛されました。

 この時寄贈を受けた俳書を軸として、その後も多くの美濃派俳書の収集が続けられ、現在の美濃派俳諧コレクションが築かれました。他にはない貴重な資料群として、研究者の利用に供されていますが、大部分はコピーによる複製本が作製され開架閲覧室に置かれているため、直に閲覧することが可能となっています。「支考文庫」の俳書には、道統家にあったころの証しとして、「道統文庫」と刻された朱印のあるものが多く、歴史の重みが伝わってきます。

各務支考展示写真

1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)

1 「岐阜県公民読書室」旧蔵資料

 太平洋戦争が終わり、日本がGHQ(連合軍総司令部)の占領下にあった時代、岐阜市司町の県庁にはGHQ岐阜軍政部が置かれ、民間の教育、経済、報道の統括管理に当たりました。

 岐阜市美江寺に建設中だった岐阜県医師会館の2階が、軍政部の勧告によって接収され、「民間情報部岐阜公民読書室」が誕生したのは昭和22年4月のことでした。図書室の名称は初め「岐阜県教育図書館」の予定でしたが、公募が行われ、正式名称は「岐阜県公民読書室」となり翌5月にオープンしました。

 開設時、軍政部からは1,500冊のアメリカの出版物が届き、その後も数度にわたって寄贈がありましたが、運営は県費で行われ、日本の出版物も備えられました。蔵書の構成は、7割が洋書で、教育、語学、芸術、文学関係が多く、アメリカの雑誌も置かれ、語学講座やレコード・コンサート等も数多く行われました。昭和26年、占領の終了とともに岐阜県公民読書室は県立図書館分館扱いとなり、同32年、岐阜公園内の新県立図書館の館舎完成を機に、吸収統合されました。

 公民読書室に入った洋書は、GHQから寄贈された、元々は米軍兵士用であったもののほかに、「キャンプ岐阜」付設の学校からの寄贈、米人個人蔵書の寄贈、アメリカ文化センターからの寄贈、県費での購入など、異なる経緯を持った様々な図書からなります。これらは、1940年代から1950年代の、アメリカの出版史の一こまを切り取ったかのように今も書庫に眠っています。しかし、当時のアメリカが何を日本に伝えようとしたか、また当時の日本人がこれらを通して感じたアメリカ社会とはどんなものであったかを知ることができる資料として貴重なものと言うことができます。

「岐阜県公民読書室」旧蔵資料展示写真

2 「明治期岐阜県庁」旧蔵図書

 「飛騨郡代高山陣屋文書」「美濃郡代笠松陣屋文書」「明治期岐阜県庁事務文書」が、県庁の書庫から、岐阜公園内にあった岐阜県立図書館に一括、移管されたのは、昭和35年のことでした。

 約9,800件、4万点に上るこれらの資料は、江戸期の幕府直轄地の行政や、明治期における近代化の過程を知ることができる貴重な史料として、県史や市町村史の編纂や、郷土史の研究に活用されました。しかし、昭和55年、これらの大部分は、岐阜県歴史資料館に移管され、図書館には、太政官布告に続く官報等の中央政府からの通知文書と、県庁書庫に収蔵されていた図書類(和装本)が残りました。

 図書の内、一般図書(1,161点)には江戸期、明治期に刊行された日本書紀などの教養書のほか、葡萄酒や紅茶の製法を記した西欧技術の紹介書(和文)も含まれています。
 また、郷土関係図書(304点)には「岐阜県史稿」(明治初期に全国的な地域沿革史編纂計画のもと作成された原稿本。出版されず)のほか、「美濃国神名帳」「岐阜志略」等郷土資料の写本や、県庁蔵版をもとに岐阜史談会から昭和初期に刊行された主要郷土資料の謄写本も含まれています。

「明治期岐阜県庁」旧蔵図書展示写真

1957年(昭和32年)から2005年(平成17年)

1 「岐阜県立図書館」・「岐阜県図書館」の郷土資料

 昭和24年、岐阜市大宮町の岐阜公園内に旧日本軍岐阜部隊の武道場を移設して仮館舎とした県立岐阜図 書館は、翌年、名称を「岐阜県立図書館」と改めました。
 新館舎の用地が確定するまでさらに7年の歳月がかかりましたが、ようやく昭和32年、仮館舎の南隣にガラス張りの、当時としては大変モダンな新館舎が完成しました。

 新県立図書館は、図書の閲覧・貸出サービスのほか、館報や蔵書目録の刊行、展覧会、講演会などを積極的に行い、読書の振興をめざして、県内市町村への移動図書館車「ひばり号」の巡回や、読書サークル活動の支援にも力を入れました。

 そんな中、昭和42年に行った「戦後・郷土出版物展示会」をきっかけに、職員が県下各地を歩いてまとめあげた『戦後・出版物総目録』は、その後の図書館の郷土資料収集を勢いづけました。個人や団体発行の小冊子や、パンフレットレベルの行政刊行物にいたるまで、郷土に関する情報が記録された印刷物なら何でも網羅的に収集・保存し閲覧に供するという、地域の図書館の課題にさらに積極的に取り組むようになったと言えます。

 平成7年、岐阜市宇佐に新図書館が開館し、それまで湿気の多い閉架書庫に大多数がしまわれていた郷土資料は、利用頻度の高いものを中心に約1万8,000冊を開架閲覧室に置くこととし、複本のあるものについては基本的に貸出も可能とする画期的変更を行いました。また、コンピュータの導入によって資料の検索も多角的に行えるようになり、それまで埋もれていた資料が日の目を見るといったうれしい現象も起きるようになりました。また、貴重資料や劣化が進む資料については、複製資料の作製やデジタル化、マイクロ化にも着手しました。

 収集担当者は、日々新聞記事や協力者から得た出版情報をもとに寄贈の依頼を行うほか、地元書店や古書店からの購入による入手も行い、収集もれのないよう努めています。平成17年6月末現在、郷土資料の総点数は約9万9,608冊となっています。

岐阜県立図書館写真
郷土資料展示写真

特別文庫

(1)看雲(かんうん)文庫

 このコレクションは美濃国厚見郡(岐阜市加納)の酒造家・宮田家(屋号:和泉屋)が、江戸中期から明治にかけて代々収集した1,500点あまりの和書・漢籍からなり、宮田嘯台(みやたしょうだい)(1747年から1834年)が収集したものが中心となっています。平成10年、宮田家より寄贈を受け、新図書館の特別文庫の一つに加わりました。文庫の名前は嘯台の居宅『看雲栖』によります。

 宮田嘯台は折衷学派の漢詩人で、加納藩儒学者梁田蛻巌(やなだぜいがん)(江戸出身 1672年から1757年)の弟子・江村北海(えむらほっかい)(京都出身 1707年から1782年)に漢詩を学び、岐阜詩壇の重鎮として活躍しました。美濃の漢詩人200余名による一大詞華集『三野風雅(みのふうが)』には最多の28種が採録されており、中でも「長良川観魚」は鵜飼の情景を詠んだ詩として有名です。
 江戸中期以降は平和な世相の下で数々の文化が栄え、町人層にも高い教養を身につける人びとが増えました。階級を越えた文学結社が各地に誕生したのもこの時期です。当コレクションが所蔵する論語などの漢文学習書、日本の和歌集、医学書、農業全書は、当時の町人が身に付けた教養の多様さを今日に伝えています。

(2)啓明(けいめい)文庫

 「書物は個人の所有であっても、その本質において公共のものである」という信念のもと、ドイツ文学史研究家・伊東勉氏(京都出身。1908年から1992年)より、約60年にわたる学究生活で収集した文献1,802点が昭和48年に寄贈されました。その後、平成2年まで数度にわたり寄贈を受け、新図書館の特別文庫コレクションの一つとなりました。

 伊東氏は京都帝国大学大学院ドイツ文学科を卒業後、1945年(昭和21年)に岐阜薬学専門学校(現在の岐阜薬科大学)に教授として赴任され、以来、岐阜の住人となられました。名古屋工業大学、中日本自動車短期大学等でドイツ語の教鞭をとられ、昭和62年に退職されています。
 研究者としての伊東氏は、ヨーロッパに古くから伝承されている動物叙事詩「ラインケ狐」、ドイツ詩(ゲーテ、シラー、ハイネ)、ドイツ社会思想史、中国文学等の研究に功績を残され、翻訳書を中心に5点の岩波文庫も著書にお持ちです。
 伊東氏の研究課題は「ドイツ語」から「ドイツ史」、「ドイツ文学」から「文学理論」、「比較文学」へと拡がり 、晩年は老子、寒山詩、石川啄木の短歌のドイツ語訳に情熱を傾けられました。当文庫の資料は伊東氏の研究に即し収集されたもので、中には18・19世紀の稀覯本も多く含まれています。

(3)豊田穣(とよだじょう)文庫

 岐阜県出身の直木賞作家豊田穣(とよだじょう)氏(1920年から1994年)は、太平洋戦争の悲劇を見つめ、再び戦争の惨禍を招かないことを願って、多くの戦記文学を残しました。「豊田穣文庫」は、豊田氏の遺志をついだ家族が、故人の蔵書約2,800冊に没後収集した戦記文学関連等資料約1,700冊加え計約4,500冊を当館へ寄贈されものです。平成7年の新館開と同時に公開されました。

 本巣郡穂積町(現在の瑞穂市)出身の豊田氏は、昭和18年(23才)パイロットとして太平洋戦争に従軍し敵に撃墜され、約2年間の捕虜生活を送りました。作家としての氏は、従軍体験作家として兵士の「生と死」を生涯の課として描きつづけました。
 捕虜生活からの帰国後、自らの体験を題材にした戦記小説「帰還」(『東海文学』昭和24年4月)は、第1回横光利一賞の次席となり、高い評価を得ました。昭和40年代になると、芥川賞候補作「伊吹山」(昭和42年)や直木賞受賞作『長良川』(昭和45年)などの重厚な私小説的作品を発表し、作家としての円熟味を増しました。

 当文庫には豊田穣氏の初出誌を含む全著作や、氏が執筆の折り参考にした書き込み跡の残る資料など、文学史の面でも貴重な資料が多く含まれています。戦記文学のコレクションとしては国立国会図書館にもない資料も含まれており日本有数の規模を誇っています。

(4)櫻林(さくらばやし)文庫

 櫻林仁(さくらばやしひとし)(横浜市出身。1916年から1995年)氏は、1962年に日本人として初めて音楽療法に関する書籍を著し、海外の研究書を翻訳するなど、音楽療法界の先駆者として活躍され、日本初の公立音楽療法研究所が岐阜県に開設される際にその中心となって働かれました。平成8年に遺族より、桜林氏が最後まで情熱を傾けた研究所のある岐阜県にと、氏の蔵書や研究書が寄贈されました。

 音楽療法とは、音楽の持つ生理的、心理的、社会的効果を利用して、心身の障害の快復、健康増進、生活の質の向上をはかるもので、老人性認知症患者が音楽を聞いて生き生きと表情を動かすシーンなどはテレビで報道されて、一般にも知られるようになりました。

 音楽療法の研究には、医学、心理学、芸術などの学術研究と、実践活動が不可欠で、そのため当文庫の和書948冊洋書519冊のほとんどが、それらの関係書で占められています。音楽療法草創期の貴重な資料や海外の文献も含まれています。

特別文庫展示写真

読みくらべ絵本

 岐阜県図書館では、「子どもと本の出会い」の大切さを知っていただき、より豊かな子どもの読書環境づくりに生かしていただくため、昭和47年に児童図書研究センター(現:児童図書研究室)を創設しました。児童図書および子どもの読書に関する参考資料や情報を収集し、どんな本を子どもにすすめるべきか、子どもは何を求めているかなどの情報、研究の場、講習会などの機会を提供してきました。
 現在、数多くの絵本が出版されていますが、その中からよい絵本を選び、子どもたちに手渡していくことは大変なことです。そこで、児童図書研究室では、同じ昔話を素材としながら様々な形で絵本化されている複数の絵本を収集し、絵・文章・話の展開等について、どのようなものが望ましいかを比較検討していただくため、「読みくらべ絵本」のコレクション作りを行ってきました。これまでに、33種の昔話について、平均してそれぞれ20冊から30冊の絵本が集まっています。
 昔話は、代々語り伝えられてきたものであり、口で語られ、耳で聞くというのが、自然の形です。声に出して語りやすく、耳に心地よく響く文章、素朴で雰囲気が生き生きと伝わってくる絵が基本と思われます。しかし、中には安易な内容に変えられ、商品化された派手な絵本が多いのが現状です。できればグループで話し合いながら読み比べみてください。どのような点に着目したらよいかのヒントに出会えるでしょう。
 絵本は、大人が子どもに読んで聞かせるのが基本です。子どもにとって、絵本を読んでもらうことは大きな喜びです。「よい絵本」を選ぶ目を養うことは大人として大切ではないでしょうか。
 児童図書研究室は、子どもの読書に関わる人々や研究者の方々のご利用をお待ちしています。

読みくらべ絵本展示写真

フランスファッション誌コレクション

(1)プチ・クリエ・デ・ダーム誌図版集(Petit Courrier des Dames)

 1821年に創刊されたフランスのモード誌『Petit Courrier des Dames』に掲載された色鮮やかなモード画を全6巻に集めた図版集(1821-1833年刊行分)です。
 誌名は"貴婦人通信"という意味です。

 『プチ・クリエ・デ・ダーム』が創刊された時代は、貴族階級が没落し、かわって中産階級が政治・経済の分野に台頭してきた時代でした。
 購買意欲のある裕福な中産階級は、半月に1度、1週間に1度という当時にしては考えられない頻度でパリの最新流行を伝える『プチ・クリエ・デ・ダーム』を手にし、地方にあってもファッション情報を手にすることができました。

 当時のファッション誌の中でも当誌が画期的であったのは、華麗なファッションに身をつつんだモデルの正面図にさらに背面図をも加え、同一の画面上に描いたという点につきます。
 これらのモード画に頼るしかなかった地方の仕立て屋(クチュリエ)は、この背面図のおかげで、服を仕立てることができました。この画期的な手法は、以後他のモード誌も習うようになりました。

 『プチ・クリエ・デ・ダーム』が創刊された1820年頃は、たった数年で流行ががらりと変化した時期にあたります。
 フランス革命直後は、ギリシャ風のゆったりとしたドレスが流行していましたが、1820年頃、ナポレオン体制の弱体化に乗じて旧貴族が復活すると、再び貴族趣味的でロマンティックなドレスが流行しはじめます。
 『プチ・クリエ・デ・ダーム』は、こうした世相の変化を敏感に読み取り、華麗な「ロマン主義」の衣装デザインを考案しています。ふわりと広がるスカート、花や羽で飾り立てられた華麗な帽子、又極端に装飾された滑稽な髪型など、一枚一枚の図版はどの部分をみても興味深いものとなっています。

フランスファッション誌コレクション展示写真
プチ・クリエ・デ・ダーム誌図版集写真

(2)ガゼット・デュ・ボントン(Gazette du Bon Ton art-modes et frivolites)

 「20世紀最大のモード誌」と称される『ガゼット・デュ・ボントン』(1912年から1925年)は、アール・ヌーボー(1900年様式)とアール・デコ(1925年様式)がフランスで一気に花開いた時代、26才の編集者リュシァン・ボージェルによって創刊されました。
 誌名は、"上品で美しい雑誌-芸術と流行と婦人装身具-"という意味です。きわめてまれな完全揃いで、全70号が14冊に製本されています。

 『ガゼット・デュ・ボントン』が今日、単なるモード誌を超えた芸術作品として評価されるのは、まずファッション史上に革命を起こしたとされる衣装デザイナー、ポール・ポワレ(Paul Poiret 1879-1944)の功績が大きいといえます。
 ポワレは当時、モード界の「サルタン」と呼ばれるほど大きな影響力をもつデザイナーでした。コルセットを排除したゆったりとしたギリシャ、東洋風の直線的ドレスを創作し、アール・デコ期の服飾界に「ポワレ様式」という言葉を残しています。

 前世紀までのファッション画は『プチ・クリエ・デ・ダーム』のように服の仕立のための図版としての役割を担っていました。しかし、ポワレは自作の衣装を描くイラストレーターに対して、服の細かい部分を描くのではなく、服から受けた「印象」を表現するよう要求しました。
 そのため『ガゼット・デュ・ボントン』の多くのモード画は、文学的な表題を与えられ、劇場の一場面を描いたかのような趣のある画となっています。一枚一枚の画は当時を席巻していたロートレック風のダイナミックなものや、ドガ、モジリアーニを思わせるもの、キュービズムや未来派の作品もあります。
 同じポワレの衣装でも、画家により異なった印象で描かれているのは大変興味深いものあがります。

 さらに、これらのモード画は「ポショワール」と呼ばれる手彩色版画によって印刷され、芸術性をより一層高めました。
写真技術が開発された当時、モード誌は写真版のモノクロが主流となっていました。しかし『ガゼット・デュ・ボントン』はあえて一枚一枚に職人が色付けする「手作り」にこだわりました。その豊かな色彩は、「ポショワール」なくして表現できませんでした。

 当誌はアール・デコが頂点を極めた1925年に終刊しますが、イラストレーターたちは活躍の場をアメリカの高級ファッション誌『ヴォーグ』(1909年に創刊。現在も刊行中の世界で最も著名なファッション雑誌)などに移し、ファッション後進国アメリカにパリの文化を伝えました。

ガゼット・デュ・ボントン写真1
ガゼット・デュ・ボントン写真2

岐阜県図書館の読書推進

来館される方を対象とする待つ図書館から、県立図書館まで足を運べない方のためにもサービスができる動く図書館へ・・・

 従来の図書館は、一カ所に居を構え、来館者を対象とする待つ図書館でした。遠方、あるいは忙しくて、県立図書館へ行きたくても行けないという大勢の人々へのサービスは十分とはいえませんでした。こうした受け身の図書館から、県下すべての地域の人に平等に本を読む機会をつくるために、昭和26年(1951年)5月、移動図書館車「ひばり号」が誕生しました。
 移動図書館「ひばり号」は、戦後間もなく県下を巡回し、地域住民の読書要求を掘り起こしてきました。この巡回がきっかけとなり、市町村立図書館創立への動きも生まれました。
 また、市町村におけるサークル活動はめざましく、その拠点となる図書館は住民に対して、貸し出しなどの直接サービスを行いました。多くの読書サークルの会員たちは、市町村立図書館を中心に本を読み、読書会を開き、読書感想文集を作成したり文学散歩をするなど、本を通した活動を楽しみました。「ひばり号」が展開した活動は貧弱な読書環境下にあった時代の読書啓発活動となりました。
 以来、県立図書館(県図書館)では県内の読書普及のために様々な活動を展開してきました。そして現在、移動図書館車は図書館未設置市町村巡回車として公民館図書室等への資料貸出、および、運営に関する相談・支援などを主な業務として巡回しています。

読書推進のあゆみ(年表)(PDF:52KB)

「ひばり号」の誕生

 約1,000冊の図書を搭載し、レコード、映写機を積み、音楽を奏でながら県内各地を巡りました。
 町村役場、学校、公民館、神社の境内などに停車して、本の貸し出しを行いました。これらは、市町村図書館創立、読書サークル育成のきっかけづくりとなりました。

ひばり号写真1
ひばり号写真2
1行李;30冊単位〔昭和34年9月〕
貸出文庫30、青少年巡回文庫50
びばり号命名写真
移動図書館車の名称は、全県から応募された中から選ばれました。
詩人・平光善久氏から贈られた詩の写真
「ひばり号」の誕生を祝って詩人・平光善久氏 (1924年から1999年。岐阜市生)から贈られた詩。

ひばり号の運行と読書サークルの育成

ひばり号の運行と読書サークルの育成
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岐阜県読書大会

 昭和36年に第1回岐阜県読書サークル研究大会が県立図書館で開催され、叶沢清介氏(作家)による講演会が行われました。その後も毎年、全県下の読書関係者が一同に会する研究大会を開催し、読書にかかわるテーマを設定した分科会および講演会等で読書推進を図ってきました。大会名称は、「県親子読書研究大会」「県読書活動推進大会」「県読書推進大会」と変遷し、平成3年より「県読書大会」として開催されてきました。
 また、大会の席上で、「優良読書団体」「読書活動功労者」「全国優良読書グループ」「読書感想文コンクール入賞者」の表彰を行い、読書活動を啓発してきました。

読書大会講師・演題一覧(PDF:368KB)

親子20分間読書

 鹿児島県立図書館長であった椋鳩十(童話作家)、本名久保田彦穂氏の提唱により、昭和35年5月「子どもの日」を期して「母と子の20分間読書」が始まり、この運動は全国に波及しました。
 岐阜県立図書館では、昭和40年に読書普及の一環として、子どもに読書の習慣をつけ、あわせて明るい親子関係をつくることを目的として、親子20分間読書研究校を委嘱しました。これは、小学校3年生の児童とその親を対象に毎日20分間程度、子どもが教科書以外の本を声を出して読み、親がそばでそれを聞く、委嘱校には図書を貸し出し、利用相談に応ずるというものでした。以降、昭和45年4月まで毎年10校から20校を委嘱しました。この委嘱期間を経過した後も自主的に継続する学校や、市町村ぐるみで実施する地域が増えていきました。
  昭和46年2月には椋鳩十氏を招いて、県親子読書大会を開催しています。

参考資料:「親子読書実践の手引き」(1969年刊)、「親子20分間読書実践の手引き」(1969年、1970年刊)

旧館時代のなつかしの品々

(1)旧図書館内に展示してあった美術作品

 県内出身の芸術家の県美術展入選作品や、図書館への寄贈作品などが旧図書館内の壁面を豊かに飾っていました。 その中から、絵画3点と書1点を展示しました。

  • 疎水長閑(日本画/紙本・着色)長谷川朝風(1901年から1977年)
  • 餌飼(洋画/画布・油彩)三田村武雄(1908年から1962年)
  • 裸婦(洋画/画布・油彩)坪内節太郎(1905年から1979年)
  • 地水火風空(書/紙本・墨)関谷義道(1920年から)

(2)家庭文庫巡回箱

 県立図書館から借りた図書を効率的に利用するため、数冊を入れて各家庭を巡回した木製の木箱。どんな感想とともに次の家に手渡されたでしょうか。

(3)市町村巡回用 柳行李(やなぎごうり)

 県内の読書施設に恵まれない地域の人々のためには、移動図書館車「ひばり号」が各地を巡回して図書を貸し出しました。貸出対象は時代によって、個人対象、市町村対象、読書サークル対象と変遷しましたが、大量の図書を山間地まで傷めずに運ぶのに最適だったのが「柳行李」でした。伸縮性がありクッション性もあったため、他に代わるものがなく、地元、穂積町(現在の瑞穂市)の特産品だったこともあり、平成の始めまで長く使われました。

柳行李の写真

(4)読書サークルの文集や機関誌・文集など

 地各地域において活動を展開した読書サークルが作成した機関誌や文集など。サークルの活動や特徴がよく現れています。長年継続しているサークルがたくさんあります。